ババッチさんの言葉
2005年 02月 02日
私の作品は、廃品を故意に傷つけたり変形させたりしないで、素材の持つ美しい姿をひきだし、現存の形や生物たちの架空の擬態として見立てて変身再生させています。
捨てられモノの哀れみを忘れさせてくれるユーモラスな表情を見てほしい、そして愛しんでほしいし話しかけてほしい。きっと心豊かになります。
私の作品はたくさんの職人やデザイナーが営々と築きあげた歴史の上に成り立つ作品で、私一人の制作物ではありません。いわば私はコンダクターなのかもしれないし、錬金術師なのかもしれない。
モノ達の有終の美が、違った所で運命的な出会いをし、私の手の中でモノの愛し子として甦った、それはスクラップアート。」
(「キロロの森美術館・スクラップアート展」のパンフレットより)
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☆ 人間の頭の中こそおもしろい
☆ババッチさんから応援メールをいただきました。感謝。
「子どもたちの芽を伸ばして下さい。これからの社会は発想の豊かな人しか生き残れません。
機械として使われないためにも。そして優しさや感謝の心を育てて下さい。ヘ理屈はいらない。ババッチより」
短い言葉に込められたババッチさんの言葉、重みがあります。
32年間という月日をかけ、継続させ続けた想いが肌を粟立たせます。
また、素材の持つ美しさに拘っている所が非常に好感が持てますね(^^)
liner-sさんが、あの素朴で素敵で元気のもらえる美術館にいったら、きっと気に入るだろうなあと思います。
そこで得た優しい気持ちを色んな方面に向けることができたらどんなにいい世界になるでしょう。
山崎先生のおっしゃる「ブログの輪」のように、その優しい気持ちも連鎖し広がっていけたらどんなにいいことか。
私は美術や音楽などの芸術は、そういった意味でもとても大きな可能性があると信じています。
心は、何かを見たり聴いたり触れたり感じたりし、そこで感動することによって養われていくのだと思います。
そう考えると副教科の時間が削減されていくのには「?」ばかりです。
美術教科の可能性かあ、いろいろ考えてみたいですね。
ところで「副教科」なんて言葉はじめて聞きました。
国数理社英を主要5教科。それ以外を副教科と、私が中学生の頃から言われていました。福岡だけなのでしょうか…
余談ですが受験の時に使う言葉で「滑り止め」という言葉も私は使うべきではないと思っています。その「滑り止め」を受験する子どもは傷つきますから。ただ、これらの言葉は悪意なく使われていますので、相手の方に丁寧に説明し、理解を得なければと思っています。
「副教科」という言葉は、私たち生徒の間でも日常的に使われていましたので、先生方もそう呼んでいたのではと思います。
正式な呼び名ではないんですね。そんなことも知らず、勉強不足で大変恥ずかしいのですが、少し安心しました。
「滑り止め」については私も同じ考えを持っています。実際その現場に遭遇して、なんとも言えない表情になった友達の顔を今でも覚えています。人の気持ちになって考えられる人になりたいし、子どもたちにもそう育って欲しいです。
美術科はどんな力やこころを育んでいく教科なのか、常に考えていかなければなりませんね。私も今後それを、自分なりに明確にしていきたいとは思っていますが、大仕事です。ふっー。
けれど、多くの人たちが自覚の無いままこの言葉を使用しています。
彼らの意識はおそらく、
主要教科=受験教科、(主要=受験)なのでしょう。
日本では寺子屋時代から読み書きそろばん、欧米でも読み書き・算がリテラシーとして、学習指導要領でも読み・書き・計算が学習の[基礎・基本]とされています。
私はこの認識に疑問を持っています。子供も大人も生活に必要なものを自分で作らなければならなかった時代には「読み・書き・計算」だけの学習でもよかったのでしょうが、人間の基礎・基本である「ものづくり」の体験が極端に少なくなった現代では「読み・書き・計算」だけの教育では成り立たないと考えています。
美術・音楽・体育・家庭・技術は「周辺」や「副」ではなく、「基礎・基本」だと思います。「読み・書き・計算」その次に必要なものです。
石狩の基礎基本は、さかいさんの言われる「ものづくり」というかそのようなことを意識しています。あえて一般的な言葉を使っているのはそのためです。しかし、ここも改訂したい。
さかいさん、ネットで広くお考えを訴えてはどうでしょう。今やるべきときかもしれません。私は08年までにと思っていましたが、今年中に着手するつもりでいます。いろいろな方と意見をやりとりする中でよいものにしていきたいです。私がこのことについてさっぱり動きを見せなければ「どうしたの?」メールください。意思が弱いので「喝」が入らないと…日常に流されてついつい後手になっています。
互いにがんばりましょう。なお、渡辺貞之氏の「図工で何を育てるのか」の中にもものづくりを通して培うべきものが示されています。同じようなことを考えている人は全国をさがせば、たくさんいるはずです。つながりあい、学び合いながら、発信していく必要があると思っています。
今はこのブログで。
「イシ ー北米最後の野生インディアンー」シオドーラ・クローバー著を読みました。
アイヌやネイティブ・アメリカンたちが自然に対峙・調和しながら獲得・伝承してきた知恵と心。自然を駆逐した社会の中で記号化された情報に踊らされている私たちが失ってしまったものです。後戻りは出来ませんが、家庭や学校に取り戻したいものです。