造形教育で対立する概念?
2005年 05月 14日
Kojio's blog note「郡山造形サークルに参加」
本質的な話でした。
「自己肯定感・自己実現と私事性(自分勝手さ)とのせめぎ合いからどう自己肯定感・自己実現を見いだしていけるのか。」
あるいは「「子ども(の思いや願い)中心主義」か「作品主義」か」ではなく。
この記事を読みながら、またいろいろなことを考えてみました。「自己肯定感と身勝手さとのせめぎ合い」→なるほどという言葉です。
私は別の視点で「個性」について、どう考えていくかというものもあると思いました。
時々、様々な表現方法をひとつの授業で取り入れると(表現方法は子どもが選択する)、色々な材料を工夫して人と違ったことをやる姿を見るのが楽しくなってきます。しかし、そこだけに目が奪われていると大事なものを見失ってしまうかもしれません。
人と違えばそれで「個性」が出ていてよしとしたなら、そこでとどまってしまうと思っています。そこにやはり自分としてよりよいものを目指す葛藤場面が出てくるような授業にしたい。自分を磨いていく、高めていく、あるいは新たな自分の発見、他の人のよさの発見、そんなことがある授業を考えていきたい。
それは、どんな題材をということもありますが、何を願って題材を設定したのか、そしてその題材と子どもをどう出会わせるのかが大事な事だと考えています。
小野さんの今回の記事は、美術教育の存在意義を考えることにもつながると、思います。ありがたい記事です。最近あまりものをじっくり考えていなくて…。刺激になりました。郡山造形サークルのスタッフとの研修楽しそうですね。
《追記》
この記事をkohjioさんのブログにTrackbackしたのですが、Kohjioさんから、コメントをくれました。うーん、本当にそうだよなあ思いました。他の方にも読んでほしくて、下に転載します。
kohjioさんのコメント「このエントリー、全く同感でした。この頃?はいとも簡単に個の違いを”個性”という言葉で片づけてしまう風潮が、学校の中でも往々にしてあることにある意味危機感を感じています。当然人がアイデンティティを確立していくためには、自己肯定感は必要なのですが・・・。これからいかに美術教育を通して自己実現が図っていく基礎を培っていけるのか、考えていきたいと思っています。単なる方法論の綱引きに終わらない、その先を求めていきたいと思っています。
ある保健室登校をしている子が「どうせ死んでしまうなら、生きている意味がない」ということを言っていたということを聞いたことがありました。時間はそうはないと思います。」
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このエントリー、全く同感でした。この頃?はいとも簡単に個の違いを”個性”という言葉で片づけてしまう風潮が、学校の中でも往々にしてあることにある意味危機感を感じています。当然人がアイデンティティを確立していくためには、自己肯定感は必要なのですが・・・。これからいかに美術教育を通して自己実現が図っていく基礎を培っていけるのか、考えていきたいと思っています。単なる方法論の綱引きに終わらない、その先を求めていきたいと思っています。
ある保健室登校をしている子が「どうせ死んでしまうなら、生きている意味がない」ということを言っていたということを聞いたことがありました。時間はそうはないと思います。