個性を伸ばす指導 (寄稿) 文教大学 三澤一実
2005年 05月 15日
個性をどのように捉えるかによって、全く授業が変わってきます。
梶田叡一氏が著書 「真の個性教育とは」(国土社)で次のように述べている箇所があります。
「他人と変わったことをしたりいったりする、自分の意見をどんどん出していくといった特徴は、個人的な人の外見イメージを、あるいはよく言い表している場合があるかもしれない。しかし真の個性教育とは、けっして外見上のことではない。・・・個性とは究極的には一人一人の内面世界に関わることである。」
以前この本に出会ったときに、個性についてもやもやしていたものがすっきり見えてきました。
私は様々な素材を選択させ表現させることが好きですが、同じ素材を使っても、技法を固定させても、極論を言いますと、明治時代のように臨画をしても個性は育つと思うのです。
ただし、取り組ませる内容によって、教師が、生徒一人一人の内面世界に触れられるチャンスは大きく異なってきます。もちろん選択が多いほどその子の内面世界に触れるチャンスが大きくなります。
必要なのは、教師がその子の内面世界(美術の場合、美的な価値観)に積極的に関わりを持っていくことだと思うのです。つまり、それは指導および評価の活動となるのですが、授業の中でいかに子どもと関わっていくか、だと思うのです。技法の習得や知識の伝達も重要ですが、個性の伸長を図るには、教師の内面性(価値観)と生徒の内面性を対等にぶつかり合わせることが重要なのではないのでしょうか。その結果、子どもは教師との価値観のぶつかり合いの中で新たな価値観を作り出していくような気がするのです。
よく私は中学の授業で次のようなことを心がけていました。皆さんも同様にされていると思いますが。
作品ができあがると生徒と一緒にその作品を見て、「先生はここがこう思うけど、君 はどう思う?」と質問していました。内面性に年齢はありませんので、作品を介しての批評はなるべく対等になるよう意識し、自分の考えや感じ方と、生徒の感じ方、考えとぶつかり合わせることを意識していました。もちろん制作途中でも同様に声かけをしていました。
このぶつかり合わせることが私は最も重要な指導と感じております。そのときに、教師と生徒という立場から生まれる力の関係があったらぶつかり合うことができませんので、対等に対話ができるように注意しました。そのときの生徒と教師との共通言語はやはり造形性でした。
《写真について》
この写真は三澤先生がピンホールカメラを作って撮影したもの(露光時間3秒)です。今学生と一緒にデジタル写真サークル「デジヴ」の展覧会を大学で行っています。顧問をしているそうで、その中の1点とのことです。
※文教大学の三澤先生からのMLで発信があり、三澤先生の了解を得られましたので、寄稿という形でブログにて公開させていただきました。
《追記 2007年12月》
この頃は、梶田叡一氏の発言に共感を覚えていましたが、梶田氏が中央教育審議会などでは、芸術教育に関しては軽くとらえいることが、わかり、失望しました。
「授業の中でいかに子どもと関わっていくか」、この問いを忘れないようにすることが大切だと思っています。
少し前に「石膏デッサン不要論」が美術誌に掲載されていました。過度の石膏デッサンが個性を失わせてしまうという内容でした。
技術の獲得と個性の伸長は無関係ではないのか、私は強い違和感を持ちました。むしろ、教える側の価値観が与える影響のほうが大きいと思います。感じ方では対等であると、教える側が常に意識することが重要だと思います。
そうかピンホールカメラか!
特別な場合を除いて、直線がまっすぐに見えない私たちの視覚世界を教える際に使えそうです。
まずいのは権威(的なものの見方)への盲従です。石膏デッサンは別にそれなりに合理的な修練だから否定はしませんが、ある偏った方法の一つだという認識は必要だと思います。美術とは「ものの見方」で石膏デッサンは西洋式のものの見方をみにつけるための方法です。だから、バウハウスの「触覚ドラム」等はそうしたアカデミー式の教育に欠けた大事な部分を補おうとしたともいえます。万能の方法はないと思います。作家は基本的なトレーニング方法を通過したのち、自分なりのトレーニング方法をいろいろと工夫しているように思います。
ある美術教育の大家が、アフリカに行って向こうの子供たちにデッサンというものを教えてやってきたと自慢げに書いた記事を見たことがあります。まあ、それはそれでけっこうなことでしょうが、僕はこういった十字軍的な啓蒙の態度はいかがかと思いました。これじゃピカソが何のために苦労したのかわからんですよね?
NHKの朝の連ドラで明治時代か何かで、女の子が外国人の歓迎で日本の歌を歌って聴かせたら、外人は「まったくひどい。この子に音楽って物がどういうものかちゃんとおしえてやらなきゃいけないわね」というような場面があったのを思い出します。音楽においのバークリー・メソッドや美術(予備校)においての石膏デッサンをみにつけると表現が似てくるのは事実でしょう。僕はどちらもやりましたが、それらはとてもべんりだけど(特に学校で教えるときに)「自分のためというよりかは、人のため(のプロジェクト)に役に立つ技術」と悟りました。
中学においても必修として美術と選択としての美術がありますから、そこでも違ってくるでしょう。私の場合は選択の山崎と必修の山崎では違います。つまり授業の中での子どもとの関わりも違ってくるわけです。本質は変わらないでしょうが。
研究授業等で教師が子どもとどんなやりとりをしているのか、そこに教師の指導観が出てきますね。これを観るのが楽しいし、勉強になります。
三澤さんの「内面世界」という言葉は「表現とは何か?」というところにいきつく大事な言葉だと思います。
授業中、子どもと子ども自身がかいた作品を離れて見ると、結局生徒も私も同じ事を思っていることがけっこうあります。これって、うれしいし、不思議だなとも思います。
なお、シカツキさんの語られた思い上がりや傲慢さんは教師自身気をつけたいことですね。私も若い頃はけっこう子どもの作品(表面だけ見て)に偉そうなことをいっていた事を思い出しました。
さかいさんやシキカツさんの熱いコメントにわたしもついつい長いコメント書いちゃいました。
ただし、西洋美術が獲得した再現的写実描写の汎用性は特筆すべきものです。ピカソはアフリカの表現を取り入れることができたが、その逆は起こらなかった。アフリカの表現はその環境のなかで生命力を保ちながら完結している。
多様な表現を求める私たちは単一表現で満足できない。多様な表現を獲得するためには、一度再現的写実描写技術を身につける必要がある。そんな風に考えています。
また、再現的写実描写技術を獲得する過程において、私たちを支配している記号的世界観に気づくことも重要だと思います。
「美術を」「美術で」教えるか否か、正直言って揺れています。ここで書き込みをはじめた頃は、金子一夫氏の考え方に近いものでしたが、自分の書き込みをふりかえると後者的なものが多いことに気づきました。
シキカツさん、ダビングの件よろしくお願いします。のちほどメールいたします。
私もこんなFlashアニメを作っています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~muddy/flash.html
さかいさんもシカツキさんも揺れを率直に出してくれていますね。
ところで必修と選択の違いがあるというようなコメントしましたが、しかし、もしかしたらそんなに本質は違わないかも…。うーん。頭の中に中学校の美術も選択になっては困るということがありますから。かなり危機感を感じています。なぜ全員に学ばせる必要があるのか…、絵は才能でしょ,好きな子がやれば個性が伸ばせていいじゃない、美術やる人って変わった人多いよね、美術は趣味でしょ。情操教育?ここにどう答えるか。
しかも美術に興味の無い人へ。わかりやすい言葉で。
今気がかりなのは図工美術教育の削減をどうくいとめるかということです。多くの方々になぜ美術教育が必要なのか、それを理解してもらわなくては。時間があまりないです。審議会の動きが気になります。5月末で文部科学省の意見集約が終わります。
実は、私は文教大教育美術の学生で、三澤先生にも日々ご指導いただいております。「デジヴ」というキーワードからここにたどり着きました。
美術教育についてこれからも深く学んでいきたいと思うので宜しくお願いいたします。