カウンターが110000に
2005年 12月 13日
写真は娘が夏休みに彫った魚。冬休みを前にして、今から「何彫ろうかなあ」と言っています。親ばか父も楽しみ。
夏休みに彫った魚のプロセス拝見しましたが、いい仕事してますね。
素晴らしい観察力と、ねばり強い探求心だと思います。
ついつい手を出したくなる気持ちよく分かります。
「冬休み何彫ろうかなあ」と盛り上がっていました。この作品は娘の中1の夏休みの釣りの喜びと自分はこういうことが得意なんだという自己主張でもあり、かつ50時間もかけていますから、売るなんて概念はないんでしょうね。それにしても、冬休み何つくるんだろう?見ている私も楽しいのです。幼稚園の時からのこぎり使っています。
関東へもし来ることがあったら、是非よっていってください。地下のアジトです。
なんて書いているうち、そういえば子どものころはレゴブロックにはまり込んでいたことを思い出しました。いろんなものを作りました。「木のなかに魚がいる」のではなく、何もない平面あるいは空間に、ブロックの組み合わせでものを出現させるのは、求める形が高度であればあるほど、論理的な思考を要求するような気がします。わたしは図面が必要なほど大きなものは作りませんでしたが、今その経験が、データベース構築などに役立っているのかもしれないと感じました。
データベースは面白いんですが、どうやってつくったか、そして何ができたか、というのは同じ技術者同士でないとわからないんです。どんなにすごいことをしても、ユーザーは「そういう機能もあるのね」としか受け止められない。その点、こういう木彫りなんかだと、感情も感覚も共有しうるんですよね。…やっぱり、楽しそうだな、と思いました。
考えるに娘は刃物をつかっているといっても、ノミは生まれてはじめて使ったし、やはりつくりたくてつくりたくて、その思いが原動力なんでしょうね。
美術の授業をするときは、やはり子どもの中につくる必然を感じさせたいんです。授業という枠がありますから、難しいことではあるんですけど。
技術を教えるのはそんなに難しくはないんです。子どもが本気でつくりたいと思ったら工夫しますしね。その時は、もう、うまくできるかどうか、なんてびびりは消えています。そしたら、もう楽しい楽しい。授業の中の私のスタンスは娘に接している時みたいなものです。ただ、なかなかそうはならないのですけど。
つくる必然性。内的な。考えさせられる言葉です。技術を教えるのは難しくない、なるほどと思います。つくりたいという思い、抱いてみたかったですね。こんなふうに考えている先生の授業を受けたかった。いや、受けていたのかもしれないですが…。わたしは授業のなかでは、「つくりたいという動機」あるいは衝動みたいなものを持てませんでした。
わたしもなにか「つくる」機会があればいいなと思いました。そういうアンテナをのばして生活してみようかなと。釣りはやりますし魚は美しいなあといつも思っていたので、なんだか刺激を受けています。
それからごめんなさい、「wada」でなくて「わだつみ」なんです…。
で、下手だったイヤだなと思う訳です。美術教育にも反省があるわけで、コンクールだって絵の掲示だって罪の部分もありますし。
で。たとえば、次のような授業もあるわけです。絵を描くという行為を楽しんでほしいという願いからです。
http://homepage.mac.com/yamazakimasaaki/sakuhinn/PhotoAlbum133.html
絵というのはどれだけ本物に似ているかだといつのまにか思い込んでいて、小学校低学年のころから「本物らしく描けない」ことがわかってしまったので、描くこと自体が嫌いでした。一方で、図工の教科書なんかに、もう体と脚のバランスがめちゃくちゃな乳牛の絵(小学生の作品)が載っているのを見るたびに、もっとうまい子がいるのにどうしてこんなのが載ってるんだろう、とか思っていた小学生でした。その感覚がわたしのなかでは未だに支配的なようで、教えていただいたページを見ましたが、こういうのを描くのが楽しい、という感覚がわかりませんでした。楽しさがわからないということがたまらなく悲しくて、悲しくて、すこしさみくなりました…。
ところで絵の方は10歳前後から写実的に描ける、描けないが気になる年齢なのです。一般的に。そのあたりでつまづいたんですね。絵を描く楽しさは、やはり描いてみないとわからないかもしれません。だから、そんなことで悲しくならないでくださいね。よい写真撮っていますから、いいじゃないですか!美術の授業で写真の授業もやってみたいと思っています。わだつみさんのお話を聞かせていただいて参考になります。
よい写真、と言ってくださって本当に励まされます。でも、自分では「好きな写真」はありますが、よい写真だと思えるものはまだありません。やっぱり、うまい人の撮るものは圧倒的な存在感がありますから、どうしてもそれと比べてしまいます。
比べるといえばわたしが悲しくなったのは、優越感、それも自分のなかにつくったモノサシで人を見下すことで得る優越感というもので自分を支えているんだなと感じたからでした。それくらい自信がないことの裏返しだろうとも思いましたけれど。
わだつみさんの写真にインパクトを感じたのは、あの都会の中にいらして、その中から自然界の営みを見つけて切り取ってくる感性なのです。
自然が豊かなところに行って自然を撮るのじゃないってところに、なんか惹かれるんですね。
どんな方が、どんな状況で撮ったのだろう?と思わせられるんです。写真から撮影者の存在を感じるんです。