対話による鑑賞授業について
2006年 10月 01日
鑑賞教育には様々なねらいも方法もありますが、その中で鑑賞行為のおもしろさを味わうという意味においては「対話型鑑賞授業」は有効な一つの手段であると確信しています。この方法について、私はあまり難しくとらえていません。ただし、いくつかの自分なりに感じたポイントを書いてみることにしました。
大人になったとき、「絵ってわからんよなー」「絵の見方ってわからないなあ、何であれがいいのかなあ」「あの絵は嫌い」なんて感じで終わったとしたらもったいないなあ、人生の楽しみがひとつ減ってしまう。あるいは他者の評価で流されてしまい、自分の判断に自信が持てない。ブランドだからとか。流行に遅れたくないからとか。有名だから。権威だから…。
若いときの仲間との豊かな鑑賞体験は自分の感じ方を大切にしたり、他の人の感じ方や考え方に耳を傾け、自分の内面をより豊かに磨いていくことにもつながっていくのじゃないかな。
(ただし鑑賞教育のねらいはこれだけではありません。対話型で主として育てたいものを書いてみました)
対話型鑑賞授業として扱う作品…
これまで授業で扱った作品で特に子どもが活発に意見交流したのは「クリスティーヌの世界(ワイエス)」「カレーの市民」・ 「地獄の門」(ロダン)・「 カントリースクール」(ホーマー)などです。鑑賞の入門題材として「なぜだろう?」「どうしてこんな作品をつくたんだろう?」「描かれた人は何を思っているのだろう?」などと思ってくれるような題材を選んでいます。だって誰でもそれを想像してみることは楽しいでしょうから。「なぜそう思ったのか?」なんてことが話題になれば表現に目が向かってきますし。入門としてよいかなと感じています。
(追記)私の参加しているメーリングリストやコメントでは「抽象がおもしろい」という話題が出ています。
生徒の実態…
クラスによって自由に意見を言える雰囲気があるかどうかは、大きいと思います。つまり安心して発表出来ない雰囲気があると難しくなりますよね。しかし、逆な発想で、だからこそやってみるということも大事だとは思います。生徒が互いを信頼し、素直な気持ちを教室で言えるようにという願いから、教育実践の中から生まれてきた有名な詩 「教室は間違うところだ」が生まれてきました。この考え方、私は大事にしています。
やはり中学校1年生から積み重ねていくことが大事なんだろうと思います。以前勤務していた学校は生徒指導が難しい学校でしたが、この対話型にのってきました。わざとふざけた雰囲気の発表をするときも、ありましたが、そこでは最初の段階で、うけねらいの発表をしないように求めました。最初にこれをきっぱり言っておくべきでしょうが、これはその程度の問題や教師の出方など、あまり強すぎるとつまらないものになる可能性も出てきます。
ちなみに他の教科の先生に見ていただいて、同じ学級でも他教科によってかなり違うのか、そうでないかも授業評価の判断材料にもなります。また日頃から他教科の授業も見ておくことは多いに参考になるでしょう。これは鑑賞の授業に限ったことではありませんし、美術科だけのことでもありません…。
教師の指導観…
対話型鑑賞授業が成功するかどうかは、(成功という言葉が適切かどうかはわかりませんが…)子どもの発想を聞きながら、「なるほど!」って教師が心から思えるかどうかのような気がします。そう思いながら聴いているから笑顔になっています。
教師が本気でおもしろがっているのは子どもにも伝わりますから。
私も最初は「この程度の感想か?」などと思ったこともありますが、生徒の発言をていねいにひろいあげ、つなげていくことで、いろいろな感じ取り方に広がりと深まりが出てきます。これがみんなで絵を見るおもしろさの一つでしょう。
生徒達に「みんながこの絵を見て特に印象に残ったものや気になるものを最初にこれから話してもらおうと思うけれど、多分、みんな違うものを言うと思う。皆が育ってきた環境が違うから。そこがおもしろいんだよね、そこにその人らしさが出てくるし、みんなで絵を見ているうちに違う見方ができたりして…これってとってもおもしろいことなんだよね。」
こうして考えると一枚の絵を取り上げたとき、同じ生徒でも非常に興味を示すこともそうでないこともあります。だから一枚の絵で感想を言わないからと言ってすぐに良くないという評価はすべきではないかもしれません。
対話型の鑑賞授業をはじめて行うときは「この授業には正解がない」ということも伝えています。
そして私自身はもはやこの絵を新鮮に見れなくなっていることも伝えています。「先生はこの絵が一般的にどう評価されているかを知っています。だから最初からそのような見方をしてしまうのです。知識がじゃまをしてしまうのです。ただ、もちろん知識があるから見方が変わったり、深まったりというのもあります。」
なお、日頃の授業でも「先生、ここどうしたらいいでしょう?」なんて質問にいきなり意見を言うのではなく(昔の私はそうでした。えらそうだったなあ。)「うーん、どうしたらいいと思う?」なんて逆に質問したり「絵から離れて見てはどう?」と言ってみたり、他の生徒に差し向けたり、すると大抵同じような答えがかえってくることが多いです。
「こんな絵もあるけど、参考になるかなあ?」なんてこともあります。それは教師の価値観に依存させないという指導観によります。カウンセリングで言うとi(アイ)メッセージでやっているとも言えると思います。
ですから「先生、これでいいですか?」というような言葉(昔の私がそうでした)が出てこない授業であるべきだろうと思います。
そしてもう一つ、生徒の感想を聞く時に「なぜ、そう感じたの?」って、教師の問いかけがポイントだということ。実はそれは「色や形」について考えることでもあります。作者の表現の意図を考えたりもするようになります。このような話し合いでは「鑑賞」ということより、むしろ「表現」と言ってもいいなあと感じることもあります。
子どもの環境…
アメリア=アレナス氏は美術館の中で実施されていますし、見せる対象とする作品もよく考えられているようです。もう美術館の中にいるだけで環境が違います。そして決定的な違いは少人数で絵を取り囲んで話していることです。人数がすくないぶん、発言の数もしやすさも違うでしょう。
と、思ってきましたが、 アメリア=アレナス氏はスライド持参で小学校でも授業をしているのです。(教育現場のプロとしては燃えるなあ)
私の授業で今まで一番ヒットしたのは、生徒に車座になってもらって、ぐんと絵に近づいてもらって、指名と自由発表を組み合わせてやったときです。このような「環境の構成」がまた大事だと思いました。
評価について…
ABCの3段階とシンプルであるから、CとAに注目するにとどめています。発表はもちろんですが、文章化することも資料として有効だということは私が言うまでもないでしょう。
文章化するのは私は今は授業の最後だけにしています。最初の感想を書いてから発表すると、硬くなり、他の生徒の発表から触発されて感想がつながらなくなることがわかり、やめました。
なお、Cですが、絵を見ようともしないような場合であるととらえています。(授業外のことに原因があることも予想されます)
感想を言語化するのが苦手でも全体から醸し出す雰囲気で絵に感動している生徒もいますよね。対話型の鑑賞授業ではありませんでしたが、ある生徒が一枚の絵を見ている時、感動している様子が伝わってきました。彼の作文は立派ではなかったですが、その表情は素晴らしかったです。彼にもそのことを伝えたところ、絵を通しての会話ができました。
大事なこと…それは「ねらい」
鑑賞授業の中で子ども達の中に何を育てるのかあるいは伝えるのか、その「ねらい」によってその方法も違うということは押さえておかなければならないことでしょう。
方法論だけで教育を論じることは、気がついたら本質から離れていくという危うさをもっています。
例えば、
私は義務教育最後の授業でワイエスの「1946年の冬」を扱っていますが、そこでは彼自身がこの絵について書いた解説を紹介しています。
また 抽象画の制作前に抽象作品を多数見せますし、作家の言葉も紹介します。抽象画の制作過程では具象絵画の鑑賞を取り入れています。
そして校内の環境づくりこれもまた大きいです。
《関連記事》
☆中学生は本物を求めている
☆(知識によって)作品が違って見えてくる
☆鑑賞教育のおすすめテキスト
☆対話型鑑賞について異業種の方から学びました
☆「アメリア・アレナス鑑賞教育セミナー」をふりかえって
☆7月19日〜20日岡山県立美術館にてアレナス氏による研修
(追記)2010年9月現在
☆中学校教師のための対話による鑑賞教育ガイドブック
↑今や、このような安くて質の高いガイドブックが出るようになったほどです。
それは,「知識が邪魔をする。」という言葉です。
もしかしたら,ここに次のヒントがあるような気がします。
つまり,「知識は本当に邪魔をするのか?」ということの検証です。
例えば,キリスト教をテーマに書かれた絵画は,キリスト教のお話しを知って見た方が,
意味が分かって面白い,ということもあります。
知識の享受と,対話がうまくかみ合わせれば,なおいいのかも知れません。
また,授業である以上,扱う作品をとおしてどんな鑑賞力を付けさせたいのか,によっても手法を変える必要があるかも知れません。
対話型は,自分なりの解釈を作ったり,作者の心情に迫ることには向いていますが,
歴史的背景から鑑賞したり,技法的な観点から鑑賞することには不向きも思えます。(進め方でできるかも知れませんが)
ん~,これから,これから。
ところで、注意し過ぎというのもわかる気がします。
こういうコメントのやりとりは研究会みたいな感じでおもしろいですね。
まあ、考えすぎて泥沼に入らない為にも、鑑賞教育のねらいを考えることが大事だと思っています。
いつか、「こんなねらいで鑑賞をするなら、こんな方法もあります!」というような多くの実践が報告されると、素晴らしいのかも知れません。
ちょっとしたチャット状態になりました。
珍しく夜更かしの理由はディープインパクト!早く走って~!!
そろそろ寝ないと・・・・。
青木先生、初めまして。対話型鑑賞、ループでしょ(笑)?
先生は「対話」ということをどのように考えていらっしゃるか、そこを飲みながらお話してから対話型鑑賞法についてループ談義すると、きっと濃い時間が過ごせるなと想像しました(笑)。
一つの作品を前にしてみんなで会話とういう対話をして鑑賞するのも対話型鑑賞ですよね。美術館にてガイドをするときこの鑑賞タイムは実に盛り上がります。(先日は男子大学生さんと出張中抜けて観に来た年配ビジネスマンさんとガイドツアーが終わっても30分ほど語り合って居られました♪)
別の「対話」もあります。
時々作品を前に動けなくなる子供達がいます。ある中学生の女の子はお地蔵さんが並んだ油彩画の前に30分。祖父を想い出して動けなくなったと言いました。ある男子小学生は庭の家庭菜園風景の絵で此処が好きと語っていました。彼は非常に複雑な家庭のお子さんでした。
先生の実践報告のなかで「こわくなった」と感想を述べてる生徒さんとお話がしたいですね♪
そのためにはそれこそいろんな「方法」があるので、もっぱら研究、泥沼です~(笑)。
ちなみにアメリアの「考えていること」には我々もまだまだ到達できていません。形はそこそこできますが。
えー、つまりとにかくいつも落ち込みながら喘ぎながらトークしています(笑)。本当にやればやるほど闇も光も広がる感じです~。
青木先生、こんどはまた違う作品でトライしてみてください♪
抽象、めちゃ面白いですよ!
鑑賞って自己投影って要素があるから深いのかなあ。
こうやって時々いただくコメントが刺激になるなあ。
確かに、「対話」という言葉で一括りにされているような気がしますが、
実際は、いろいろな「対話」がありますよね。というか、文科省の奥村先生がおっしゃっている、「創造的行為としての観賞」というのが大切で、手法はどうであれ、「自ら積極的に作品に関わる中で、作品をとおして自己を見つめる行為」としての鑑賞ができればいいのかな、と、みなさんの意見を聞いてなんとなく思いました。もしかしたら、対話型は鑑賞の初期の手立てとして小学校や、中学校なら1年生で取り扱い、3年生になるころには、ただ作品の前で1時間、自分の力だけで作品と対話できるようになったら、すごいことですよね。というか、これが本来大人になったときの鑑賞者の姿のはず。高まった鑑賞者の姿ではないでしょうか。
大人になったときの理想の姿を想像して必要な力という視点も大事ですね。そのために教育の中で何が大事か。
鑑賞教育で青木さんがなげかけたことが、きっかけで、いろいろ考える機会ができました。他の人もコメント入れてくれると楽しいのですが。
青木先生の東近美での研修のレポート、アップされて直ぐ仲間と読ませて頂きました。mite!展ど真中でしたので動きもとれず、そんななか先生のレポートは気になっていたポイントも先生の素直(シツレイ!)な感想も満載で、とても参考になりました。こちらであらためてお礼を♪ありがとうございます!
mite!展で一緒にナビをして頂いた小学校図工部会の世話役の男性教諭の方に「・・こうしてあまりに対話型鑑賞がもてはやされブームになるのもどうでしょうね?」と問い掛けましたら彼は笑って、「これくらいで流れが変わるような甘いものじゃあありませんよ~」と仰いました。思いっきり美術教育の現場の言葉に自分の甘さを反省しました。
こちらで意見を交換される方々の視線はとても真剣で、背筋が延びます。
レポートの方もご覧頂いてありがとうございます。つたない表現でありますが,雰囲気が伝われば・・・。来年度以降行かれる方もいると思うので,その参考になれば,とも思って書きました。
「これくらいで流れが変わるような・・・」というコメント,まさにそのとおりかも。というのも,全造のMLやここのブログ等では当たり前のように語られる「対話型」も,自分の県を見ても,どこの学校でもやっているわけではありません。未だ,制作後の生徒作品の鑑賞会だけの鑑賞の域を出ていないところも多いという報告もあります。「鑑賞」について,本県でも,「あーとネットとちぎ」という鑑賞教育研究会を県立美術館を中心に立ち上げました。しかし,反応は鈍く,中学校美術部会として団体登録し,自己負担ゼロにもかかわらず,窓口である私のところに,ログインのアドレス登録を申請してきた人は一人もいません。鑑賞教育のそれが現状なのです。つまるところ,やってる人はやっている,という感じも拭えません。
本県だけの事なのかも知れませんが・・・。
で、私も機会があったらこんな方法ありますよと紹介しています。
うーん、日本美術教育学会の大会であった岡山の発表。対話型を市の中学校で取り組んだ報告で、先行研究として参考になるものでした。
青木さん、みんながやったらやるでは、なかなか進みませんよね。自分一人でもやるという意思もまた大事なんでしょう。やっていることが正しいならば賛同者は増えてくるでしょうね。応援しています。
今日は地域の研究会の事前打ち合わせ。鑑賞教育がポイントです。楽しみです。
そんな下地はあるものの前述の先生の発言が岡山でも現実ですから、孤軍奮闘に近い青木先生のお気持は沢山の先生方から共感されると思います。
幸い「夏休み研修」を県美の鑑賞プログラムに参加してくださる教員の方が年々増え、今回のmite!展ナビもそのなかの先生が何名か参加されるというウレシイ繋がりがこちらでは生まれつつあります。
そうそう、「作後の生徒作品の鑑賞会だけの鑑賞」、これに関して今年の研修である小学校の先生が「・・作った本人を前にその作品を鑑賞することにいつも疑問に感じていました・・。でも作家の作品を鑑賞することでそのストレスがなくなりました。」と仰いました。その先生の授業に向かう真剣さに頭が下がりました。
鑑賞教育が良い形で認められていけばいいなあと願わずにはいられません。
http://yumemasa.exblog.jp/3337433
をよろしければ読んでください。日本美術教育学会事務局の大橋功さんがアンケート調査をもとに美術教育あるいは鑑賞教育について現状を分析し、これからの課題を述べたものです。新聞記事になっています。
まさに川上さんの言われる「鑑賞教育がよい形で認められていけばいいなあ」という思いと一致する気がします。ただこの調査の時よりも今は少し、広がりを見せていると思います。
自分の県でも,11月に県の研究部会で鑑賞の研究授業があるので,
いろいろ意見をしてきたいと思います。長野の大会の後でもあるので,
なお勢いづくかも知れません(汗)研究授業では,生徒の反応に絞って(山崎さん流に言えば「今,生徒の頭の中で何が起こっているのか」を)観察してこようと思ってます。
しかし,作家の作品を鑑賞するだけでそのストレスが無くなる,というのは面白いですね。その先生が,疑問を感じていたことが何より素晴らしいです。もちろん,生徒作品の鑑賞が悪いわけでは無いですが,それだけというのは問題ですよね。鑑賞については,小学校の先生方も結構とまどっているという話を聞きます。特に美術専門でない方にとっては,なおさらで,「やってない」なんて声もちらほら。何とか式が入り込む前に,先手を打った方がいいかも知れませんね。ところで,法則化って,鑑賞もあるのでしょうか?「対話型」も,なんか,誤解されると,そちらが飛びついて,妙なマニュアルみたいのができそうなイヤな予感も・・・・。
さて、法則化では「分析批評による名画鑑賞の授業」岩本康裕(明治図書)が1990年に出ています。対話型に似た部分もありますが、大きな違いは名画にある一定の価値を認識させるようにしていることです。
私もやはりこのように一定の価値を認識させたくて私の感動を話したりしましたが、それよりははるかに工夫されています。
対話型についてはすでに「MITE!ティーチャーズキット」が出ていますが、それは一例であり、子ども中心でないとできませんから、教師の私事でどうのこうのといういうようにはならないでしょう。これは持っていてよい本の一冊だと思います。
対話型の理想パターンを誌上で再現しているものといえると思います。
青木先生の言われる「法則化」ですが、今の所私が接している範囲ではまだ見ていません。ただmite!キットを発行されたタンコウ社の方が「アメリアのしていることが曲解されて広まりつつある気配を感じてる」とは仰っておられました。どんなこともオープンになれば様々な思いが流れ込み動き始めるのはある程度は仕方の無い事かもしれませんが・・。(余談ですが提唱した本人の意図から外れてもXX式と呼ばれるのは耐え難いことで、今回「mite!おかやま」でもそこは厳しく言われました。が、それこそ本質を完全に理解しきりスキルも完璧など有り得ませんので、多少トーク技術は?でも、キット及び展覧会の趣旨だけは外さない!の精神で我々は取り組みましたが、その結果についてはまだ彼女からの「評価」を頂いていませんから何ともお伝えできませんのですが~。チョットコワヒ・・)
それを冷静に見つめるには、山崎先生が仰る「ねらい」に結びつき、また青木先生の感想にある「自分たちが、まずいい意味での鑑賞者になる必要があるような気がしてなりません」にリンクするような気がします。
やはり法則化で出ていたんですね。タイトルからして,随分堅いですね~。結構前のものですね。
「MITE!ティーチャーズキット」はまだ購入してませんが,
「子ども中心」というのがいいですよね。そこを抜きには語れないから,
難しくもあり,また,楽しくもあるわけで。
今は,とにかくいろんなパターンの鑑賞を試みて,よりよい鑑賞の授業を模索することにします。
1学期行った鑑賞:1年生は追体験「10∞のボール」,2年生「クリップの鑑賞」「水鏡」「錯覚・錯視」,3年生「河合寛次郎~京都の美術」「イサムノグチ『モエレ沼公園』」「モナリザを読み解く」・・・などです。
思えば,「クリップ」は同じ2年生でも,興味深くやってくれたかも・・・。
こんなところです。
川上さんや青木さんが言われるように形式になってそれだけが一人歩きしたらこわいですね。
でも対話式はいくら言葉通りやってもうまくはいきません。教師の醸し出す雰囲気や表情も大きいはずですから。ただ形式通りにやっても言葉の羅列で終わるでしょうね。きっと。
まあ、やはり「ねらい」を押さえることが大事だと思います。そこをしないと話し合いが噛み合なくなるでしょうし。今日の研究会の事前打ち合わせも、発表者の「ねらい」を押さえてないといけない、方法論だけにいくと、それこそ、方法が目的化されてしまいますから。
青木さん、長野は行けません。お金がありませーん(涙)。今年は美術教育関係で相当な出費をしてしまいましたあ。
美術における対話型鑑賞に触れられると、その可能性の広がりに様々な方が希望を持たれます。学校の先生方も美術のみならず学習指導相談や生活指導相談に極めて有効だと仰います。アメリアも自著のなかでその効果が美術作品の理解にとどまらないことを繰り返し述べています。実際こういったトークやガイドをしていると、我々自身も第一印象だけで物事を捉えることより、なんで?どうして?その理由は??と妙に思考を拡がらせる癖がついていて、「何故このアナウンサーは今日ピンクのネクタイをしてるうんだろう・・??」とつぶやき、家族から「出た、ビョーキ。。」と指摘されます(笑)。でも悪くないビョーキだと思います~。
じゃあ何故あえて「美術作品」を対話鑑賞するのか。
・・・いつもそこへ還っていきます♪
この授業が和やかに進むとなんだか、ひとり一人の発言が生きてくるというか、なんだか、いい雰囲気になるんです。
よくコミュニケーション能力とかって言われたりしますけれど、そんな力を育てることにもなると感じています。