鑑賞教育の必要性 こんな文化状況だからこそ
2007年 04月 10日
今、子どもは簡単に強烈な刺激を得ることが出来るということが問題。ネットもテレビも雑誌も。
それを取り去ることは不可能でしょう。臭いものに蓋?国全体で考えていかなければならないことでしょう。
さて中学校1年生あたりだと、名画にあるヌードなどを見るとニヤニヤする子が多いですが、当然の反応でしょう。しかし、2、3年生の美術の授業ではそのような反応はほとんどありません。見方が違ってくるからです。これは鑑賞の授業の成果のひつでしょう。
今日、2年生の授業びらきで、教科書の作品をいっしょに見ていきました。そこには仏像や壷や屏風もあります。これらのものが中学生の日常会話の中に出てくることはまずないでしょう。ブランドの話題は出ても…。
授業の中で、教室の照明を消し、少し、薄暗くして「畳のある部屋でこれを一人で見ていると思ってください。それからこれをつくった人のその時の気持ちを想像してみてください。」と言ったあと、私は何も言いませんでした。教室は本当に静かです。
このようなものに触れる機会を教育の中でやはり用意しない限り、こんな世界を知らぬまま大人になってしまうことがほとんどでしょう。
社会科の教科書でも扱われているような作品ですが、美術の授業は知識としてではありません。感じる心が大事になるわけです。
鑑賞教育の必要性をこんな文化状況だからこそ、より一層大事だと思っています。
今日の授業で真剣な目で作品を見つめる子どもの目、表情、こんな姿を受験学力ばかりに目が向いている大人に見せてあげたい。
テストに真剣に取り組んでいる時の姿とは違う、この集中感。
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簡単に出来る鑑賞教育
「感じる心が大切」、共感します。そこが、美術の基礎基本なのではないかと思っています。
基礎基本という言葉が出ると、どうしても技法の方にいってしまいがちですが、作品を作るという行為は、見て感じることの積み重ねで、制作衝動が起きていくと思います。技法ありき、ではないと思うんです。
そんなことを考えながら、自分の学校の学力向上研究をまとめようとしています。ここ数年、あれこれ鑑賞について考え、実践し、丑久保さんのところまで来ました。制作で言えば、たくさんデッサンした感じです。ここからは、そぎ落としていきます。11月の研究発表の研究授業では、もっとずーっとシンプルなものになるかも知れません。
それこそ、ここで紹介されている山崎さんの授業のように・・・。
シンプルでも生徒の心に刻み込む山崎さんのような授業、ぜひ、目指したいものです。
そうですね、技法ありきではないですね。自分の子どもでも生徒でも、それを強く感じることはあります。
もう本気でどうしても描きたい、表したいことがあれば、子どもはおそろしいほどの力を発揮しますよね、
だから子どもと題材をどう出会わせるかってすごく大事だと思っています。そして青木さんお言われる「見て感じることの積み重ねで、制作衝動が起きていく」というのもそうですね。自分の授業で言うと、その抽象画の授業等、そのことが顕著です。
最初から強い表現意欲や表現したいテーマがあるわけではないのに「見て感じる積み重ね」で高まっていく感じです。
私の授業はそんなにすごいわけではないですよ(笑)というか誰でも出来る授業スタイルにしたいといつも心がけています。うーん、青木さん鋭いなあテレパシー通じたかな?シンプル。
今石狩でやろうとしている研究がシンプルです。
互いに交流しながら高めていきたいですね。
「屏風」は、折って立ててあるので、その感じを体験させるために、
教科書の図版を折らせてみました。平面とは感じが変わることを
体験してくれたようです。
屏風はおると感じが変わりますよね。対話型鑑賞は何も1時間ばかりではなく、数分でも、そのコンパクト版は出来ますね、今日はルノアールをとにかく数分じっくり見てもらって(描いた人はどんな気持ちで描いたのか想像しながら)その後の感想で、心がおだやかになる、やさしい気持ちで描いたんだと思います。何度も筆を重ねて…。初対面の子ども達でしたが、いい見方をするなあと感心しました。物理的には平面のインクが乗っている印刷物を見ただけなのに、見ている人の気持ちが変わるってすごいよね、これが美術の力なんです、なんてもとめました。
短時間でもできる鑑賞いいなあと思います。