STRONG ARTS,STRONG SCHOOLS

チャールズ・フォウラー(Charles Fowler)著 「STRONG ARTS, STRONG SCHOOLS」を名古屋大学の非常勤講師藤木周先生が「元気なアート、元気な学校」として訳されました。
 その一部を藤木周先生先生ご本人のご了解を得られましたのでここに公開させていただきます。一気に引き込まれ一気に読んでしまいました。共感する部分が非常に多いのです。
 なお、資料は「名古屋芸術大学研究紀要 第28号(07年3月20日発行)から抜粋したものです。なおブログに転載する関係上、実際の研究紀要とは改行が違いますし、脚注はブログでは本文の中に(注…)として挿入しています。

----------------------------------------------------------------------


翻訳 「元気なアート、元気な学校」

STRONG ARTS, STRONG SCHOOLS


チャールズ・フォウラー(Charles Fowler)著

藤木 周 Fujiki Makoto (美術学部)


 最良の学校は最良の芸術プログラムを備えています。教育における卓越と芸術における卓越は密接な関連があるようです。さてどんな繋がりでしょうか。最良の芸術プログラムが学校をより良くするのはなぜでしょうか。どうして芸術が一般教育を増進するのでしょうか。
 本稿はこうした問いに答えようと、芸術が卓越した学校教育の品質保証マークの一
つとなっている理由を、目に見えるような事例で示していきます。

教育をもっと総合的に

本来、学校とは実践的な場です。世界を学ぶ最良の方法は、理想的にはそれを直に体験することてです。生徒たちが宇宙探査について学習するように望むならば、彼らを(ケネディ宇宙センターのある)フロリダのケープカナベラルや、カリフォルニアのジェット推進研究所に連れ出せば良いのです。
 しかしそれをどんなに望んでも、直接体験を通して教えることに掛かる費用の高さや、様々に難しい問題があるので、学校は都合の良い、ましな仕方でそれに代えてきました。つまりそれは、人類の英知と業績の偉大な宝庫である読書、数学、科学、歴史、そして芸術という教科です。




例えば、生徒がグランドキャニオンについて勉強しているとします。実際にそこには行かないで、グランドキャニオンを一般的に理解きるようにと望むならば、言語的な描写に訴えることができます。「世界で
最も大きな峡谷であるグランドキャニオンとは、何百万年に渡ってコロラド川が削りだしてきた多色地層の景観である」と。その広大さを伝えたいときには、寸法を使うと良いでしょう。「グランドキャニオンは深さ1マイルあまり、広さは4から8マイルあまり、そして長さは200マイルほどあります」と。言葉や数字といったシンボル体系はそれぞれが、重要な側面を明らかにしてくれますが、やはり写真や絵画も、やはりそうしたことを教えてくれます。(図1:トーマス・モーラン「イエローストーンのグランドキャニオン」(1872年)省略)(注:百聞は一見に如かずといわれています。アメリカの画家トーマス・モーランは1872年の「イエローストーンのグランドキャニオン」でその壮観な様を描いています。)
創作文、ダンス、音楽、演劇や映画、そして視覚芸術といった諸芸術は、世界についての自分たちの印象を記録し、分かち合い、反応したりする方法として役立つものです。
 た とえば、コミュニケーションするための伝達手段として詩を使うと、生徒はグランドキャニオンの解釈や自分自身の反応を表現するように促されます。数学は大きさについての量的な寸法を与えてくれるものですが、我々個々人の多様な反応を探求していくものが詩です。両者の観点にはともに確かな根拠があり、ともに理解に貢献するものです。この場合、自然界の傑作の一つについて、全体的には両者はやや広がりのある概念を指し示しています。
我々があらゆる手段を使って、この世界を表象し、解釈し、そして伝えようとする理由は、とてもシンプルだけど力強いものです。つまりそれは、これら手段のうち、どれ一つとして脳裏に完全なイメージをもたらすことができないからです。数学、科学、そして歴史が、それぞれに、この世界のリアリティのほんの一部分だけを伝えています。ただ芸術だけがそれを十分果たしているというわけでもありません。むしろ、脳裏により完全なイメージをもたらすためには、シンボル体系の複合が求められます。そうしたことから、より総合的な教育が要請されるのです。

学習にもっと引きつける方法

異なる様式の論法を育むことから、芸術は科学を補完しています。一点に集めていく思考よりも分岐していく思考を芸術は教えます。生徒が、みんなと同じ解よりも、それぞ
れ異なった解を導いてきても良いのが芸術なのです。通常芸術は、生徒が学ぶ他のほとんどの教科と違って、一つの正確な答えを求めません。(図2:ネル・エランの生徒作品3点 省略) (注…ネル・エランのすばらしい教えの元、ミシシッピーのスタークビル高校の生徒たちは、同じ課題を彼ら自身の方法で答えていくようになっています。視覚上の快を生み出すと同時に、左右対称に描かれている瓶は、クレヨン・エッチングの技術によって、自ら直接選んだ5つの瓶による創造性の言明をも生み出しているのです。こうした課題に答えることを学ぶ中で、生徒は判断力を鍛え、選択肢を探求し、適切な解決へ到達しなければならないのである。
 芸術が示す、あらゆる問題には正しい答えがたくさんあるものだという理由から、正しいか誤りか、この名前は何か、それを覚えているかを問題とする公教育の限界線を、芸術はうち破ることができるのです。
 アメリカの実業界は、単なるの基準通りの答えを出す能力ではなく、両方の種類の論法で考えられる能力を求めているのです。
生徒を創造上の問題解決に没頭させているときには、我々は彼らをパートナーとして学習課程に招き入れています。考えるべきことを教える代わりに芸術が生徒に求めることは、それぞれの反応を分別することと、手近な媒体を通してそれをはっきり表すことです。外のものを内に取り込む学習というより、内にあるものを外に出す学習なので、こうした課題学習に生徒は一心不乱に取り組んでいきます。生徒は自分自身の創意工夫を通して、独りで答えを発見するようになるのです。そうした解答は批判的思考と分析力、そして判断力を必要として得られるものですが、生徒はこの勉強を続けるようになります。なぜなら生徒は他の誰かの複製ではなく、自分自身の世界を創造しているからです。独りで考えら れるようになることは、創造性の基盤です。それはまた、学習に引きつけていく方法でもあるのです。
単に傍観するよりも、生徒が芸術の世界へ積極的に参加していくよう誘うのが芸術です。
しかし、重要なことは、活気だけではありません。それはつまり、彼ら自身のヴィジョンを創造していくプロセスの中で、芸術は生徒に職人の技能(クラフトマンシップ)を教授するということが重要なのです。芸術のカリキュラムは生徒に、すべての表現に富む細部がどうしたら同時に機能するかを、そしてこうした細部がどれだけ重要であるかを教えていきます。例えば、優れた職人の技術(ワークマンシップ)は実際に、日本の経済的勝利の要となっています。「メイドイン・ジャハパン」といえば、1930年代に持たれたイメージよりも、今日の方がずっと肯定的で、たいへん様変わりした印象を呼び起こします。何故でしょうか。日本は職人的技能(クラフトマンシップ)を工業に応用し得たからです。自分たちの作品が規格にあてはまることを生徒に求め、自分で評価できること、そして自分で修正できるようになることを求めるのが芸術です。芸術を通して、生徒は自己修養を学び、そして目標をめざす中での失敗とフラストレーションを操作する術を学んでいくのです。こうして身に付けた特質が、有能な労働力と良くできた製品には必要不可欠なのです。
優れた技術(ワークマンシップ)は、卓越に自ら直接関わっていくことを求めます。芸術は生徒の内的な資源を伸ばすように求め、自分たちのイメージする完璧を求めて作品にその力を振り向けるように求めていきます。芸術を通して生徒は、予期し得ない自分自身の人生を、並はずれたそしてめったにないものにしていけることを学ぶのです。生徒は、過去、現在、そして将来のあるべき世界について、自分自身の展望を生み出すことが出来るようになり、新たな次元を見通すこともできる広大な宇宙を創り出すことが出来るようにもなるのです。想像力を用いることで、自分自身とその世界を自分たちが思い描くように作ることができるということを、生徒たちははっきりと理解し始めるのです。芸術は創造性の源泉である想像的な思考過程を育成し、芸術は学習へのモチベーションを高めるのです。こうした精神的な能力が、世界的な経済競争でアメリカが成功を収めるための基礎となるのです。

もっと結束したカリキュラム

芸術の主題は人生そのものとかわらぬほど幅広いものです。それゆえに芸術は、他のほとんど全ての教科と何らかの面で容易に関わることが出来るのです。しかし一般的に芸術は、情報の伝達物ではありません。ダンスや音楽は、我々の情報が積み過ぎになるまで加えることはありません。その目的はデータを運ぶことにあるのではなく、洞察と英知を供給すること、ようするに「意味」にあるのです。その力とは、芸術が我々を「感動させる」ことができるということなのです。人間的次元というものを理解できるようにする、橋渡しとして芸術は役立つのです。芸術が人間について教えてくれるのです。それはつまり、人はどのように考え、どのように感じてきたのか、そして何を尊んできたのかについてです。芸術は、他の人々や他の時代に関しても同じなのですが、自分たち自身と自分たちの時代を定義するのに役立つのです。
芸術はコミュニケーションの強力な道具です。それぞれの芸術がコミュニケーションの体系として機能を果たしており、それに従う中で長い間にわたって人々は(それについての)意見と解釈、そして将来性をはっきりと述べることが出来たのです。それ以上に、我々が芸術の象徴的コードの「読み方」を学んでいけば、我々は過去の芸術とコミュニケーションをとり続けられることでしょう。
 例えば、ルネサンス時代とバロック時代の人々の間にある、考え方や生き方の違いを理解するために、我々は歴史の記述と説明をより豊かにするべく芸術を用いることができます。つまり、これらの時代の建築や意匠の様式の比較は、
見識と明快さを更にもたらしてくれるので、教育上為になるに違いありません。
ルネサンス時代に広まっていた体系的で秩序だった思考が、バロック時代の動的で練り上げられた劇的な性質に置き換わったことは、芸術を通して理解できることです。後者はJ. S. バッハの音楽に典型的に現れていますが、この移動は軽快で小さなものから重く量感的なものへの、そして簡潔なものから複雑なものへの動きだといえます。(図3:バッジ・チャペル(フィレンツェ)とサルーテのサンタマリア教会(ベネツィア)省略)生徒自ら、こうした比較をしたり、発見したりするようになることもあり、彼ら自身の設計で、ずっと管理された古典主義的な見方とより自由なロマン主義的な見方を対比する実験ができるよう
にもなります。こうした点から、芸術は他の領域の学習に重なり合ったり、それを補強したりするのです。
芸術はまた、時と場の意識を伝え、生徒を連れ出していきます。純然たる事実の向こうに、より個人的な方法での過去の体験に生徒を赴かせようとするからです。例えば、音楽は、時代と場所を別にする人々がどのように感じ、どのように考えたかを呼び起こしてくれます。幾世紀かに渡る人々の精神を投影している音楽のおかげで、過去の時代の人々が生を再び取りもどしていきます。このようにして、芸術は歴史を活気づけ、生徒を惹きつける人間味のある次元を、歴史に付与してくれるのです。
また芸術は、科学についての理解の幅を広げることもできます。もし生徒が太陽の運行体系の本質を勉強し、24時間ごとに地球が地軸を中心に一回転しているということから、太陽が昇ったり沈んだりするように見えているのだと学んだとします。すると科学は日の出と日没についての真実の一部分を提供できたことになります。しかし、新しい一日のはじまりに私たちが感じる快活さも、日の出の真実もしくは意味のもう一部分です。(図4: アルバート・ビアスタッド「草原を渡る移民たち」省略)(注…19世紀の絵画、アルバート・ビアスタッドの「草原を渡る移民たち」では、新しい一日の夜明けは西部移民の希望を象徴している。)
 
イギリスの美学者で批評家でもあったハーバード・リードはかつてこう論じたことがあります。「同じ現実について、芸術は表象するのであり、科学は説明するのである」と。つまり、現実の異なった側面に芸術と科学は関係しているのです。
上手に活用すると、芸術は別々に分かれている教育課程の領域を一つにまとめる接着剤になります。最良の学校では、このことはしばしば現れている事例です。芸術は、その教科横断的な潜在能力から評価されています。そして芸術がもたらす成果とは、もっと結束したカリキュラムであり、そこで生徒が教科間の関係性を探求できるようになることです。
真理と理解は、ただ一つの不完全で試験的な視野としてではなく、諸観点の合成物である
と認められています。結局、科学とは絶え間ない変化の一貫した状態の内にあるのです。
こうした意味では、カリキュラムの別の側面と結びつくことで芸術は、生徒がより完全で人を引きつける概念を産出できるようにしているのです。意味と知識のもう一つの外観を提供するものが芸術なのです。

周縁文化の橋渡し

芸術はしばしば地域社会や民族の意識を表現しているので、芸術は人間が人間とは何かを定義する方法の主要なものの一つとなっています。芸術を創造した人々の精神が伝わってくることから、若者が異文化間(インターカルチュラル)や同一文化内(イントラカルチュラル)についての理解力を獲得するのに、芸術は役立ちます。芸術は単に複数文化的(マルチカルチュラル)なだけではありません。芸術は超域文化的(トランスカルチュラル)なものであり、異文化間のふれあいと理解、そして自分たちと異なる人々に心を開く ことを教えてくれるものなのです。(図5:ボウフォード・デラニー「公園でのたき火」(1946年)省略)(注…アフリカン・アメリカンのアーティスト、ボウフォード・でラニーは、「公園でのたき火」(1946年)で、ホームレスの苦境を絵に残している。我々自身とは異なる生活様式の鑑賞者にも、共感と理解を生み出す作品である。)

自分自身の感受性と他の人々の感受性とに触れあうように仕向けることで、芸術は人を洗練させる偉大な潜在能力の一つについて教えてくれます。共感できるようになる方法のことです。芸術が共感について教えてくれるという程度においてですが、芸術は思いやりや慈悲に関する我々の潜在能力を伸ばしていきます。知性は貪欲さやごまかしの道具として使うこともできますが、知性のそうした使い方を抑制したり、取りなしたりするものが共感です。他の人々の物の見方を自分に取り込むことを可能にするのが共感なのです。アメリカ・インディアンの笛が奏でる古のメロディに帯びるうっとりとした孤独に耳を傾ける時、その音色は部族の精神を呼び起こしていきます。ネイティブ・アメリカンのダンス もまた同様の効果を持っています。このように、彼らが洗練させてきたものの一部を体験することで、ネイティブ・アメリカンがしばしば間違った典型化をされてきたことを、我々は容易に理解できるようになるのです。
ほとんど奇跡に近いものが、ここにはあります。なぜなら、他の人々の人間性をちらりとでも見ることはすなわち、我々を隔てる文化上の亀裂を渡りきったことと同じだからです。私たちを他の人々と結びつけるのは知性ではありません。それは感受性なのです。人とは自分たちの芸術表現を通して自らを定義するものなので、こうした表現が彼らの人間的神髄を伝えあうのです。そしてこのことが、芸術が先人や自分たちのそばで生きてきた人々と自分たちを結びつける手だてとして役立つという理由の説明なのです。敬意について教えるのが芸術なのです。

もっと人間主義的なカリキュラムを

青少年の発達に関して、芸術にできる最も重要な貢献の一つは、情緒と精神を健康に涵養していくことです。
 どんな現れ方であっても、人間精神が芸術の中心にあります。大聖堂、モスクや寺院、絵画、彫刻そして音楽のことを思い浮かべてみましょう。これらは、精神的な世界と触れあうようにさせるため、そしてこの接触を持続させるために、世界中で生み出されてきました。芸術に鼓舞されて生徒たちは、芸術それ自体の内部により深く手を伸ばそうとしていきます。そして充分に理解することもつかみ取ることもできない生の次元への畏敬、我々自身の脆く限りある存在への畏敬、そして宇宙という広大さの中にある生それ自身への畏敬の念が生じるところに達していくのです。

芸術は、他のどんな方法でも獲得することができない人間的な知覚や理解力を我々にもたらしてくれます。最高の状態であれば、芸術は常に啓蒙するものなのです。
 例えば、演劇は、過去や現在の人間性の愛すべき欠点や勝利を探索しています。ビロードの幕の向こうには何があるのでしょうか。遠くから、なおかつすぐれて客観的に、眺めることが許された実人生の一面でしょうか。我々は自分自身が再演するのを見ているのです。人間的な状況や人間的な成り行きを体験することで、自分たちや他者についての我々の理解をより深められるのです。
芸術を通して、生徒は、かつて生きていた人々の神髄と直接に関わることができるのです。例えば、オーギュスト・ロダンの彫刻「カレーの市民」は、英仏間の百年戦争の時に起きた悲劇的な出来事を再現したものです。5人の男性像はそれぞれが絶望の習作となっており、1347年にカレーを包囲攻撃したイングランド王、エドワード3世との謁見に備えているところが彫られています。この市民たちはその生命を犠牲にすることで、市を救ったのでした。ロダンは私たちみんながこのことに関われるように、遠い昔の争いの本質を再現しているので、緩慢なそして苦痛に満ちた身振りの中に、戦争の所産である人間的な苦しみや、この市民たちの高貴さに、我々は向き合うことができるのです。(図6:オーギュスト・ロダン「カレーの市民」(1886年)省略)(注…我々はここにいる。オーギュスト・ロダンの彫刻「カレーの市民」(1886年)は、私たちを1347年に遡らせ、百年戦争が引き起こした苦しみを教え、他の者たちを救うためにその命を犠牲とする人々の高貴さを教えてくれる。)

ところで、こうした芸術作品は本当に重要なことを成し遂げているのです。
 その例として、芸術作品は人間の持つ並はずれた発展性を見せてくれます。先の市民像は、不運に耐え忍び、それにうち勝つ人間の潜在的能力を証明しています。他の多くの芸術作品のように、ロダンの彫刻は、自分自身の雅量や人間性に対する能力を見いだそうと、普通のこと 、そして日常ありふれたことの向こうに我々は手を伸ばすことができるということを、生徒たちに教えてくれるのです。
我々は考える生き物であると同時に感情の生き物です。この事実を認め、このことに向き合う学校が、よりよい学校なのです。科学と技術は我々の精神の面倒を見ませんが、芸術はそれをします。それが芸術の役割なのであり、それがその他の教育課程を補足し、釣り合わせていく芸術の理由と方法なのです。心の他の部分が養育を必要とするのと同じように、我々の精神は養育を必要としています。だからこのことを無視する学校は、冷たく荒廃した場所となるのです。もし我々が生徒の人間性に触れるのを怠れば、全く完全に彼らに関わりあえなくなってしまうということを忘れてはいけません。だから芸術を教えていない学校は、本当に文字通り、かくあれと願うようにはほとんど洗練されていない世代を、そうなるのも仕方がないほど粗野な世代を、輩出してくことになるのです。

まとめ

感情的で、直感的で、しかも不合理な人生の一面を、科学は説明するのをひどく苦手にしていますが、芸術は生徒がそれを探求するのを勧めています。ゆえに芸術はずっと総合性と洞察に富む教育を提供できます。人間は現実の特定の側面を再現する方法として諸々の芸術を創り出してきました。それは、世界について理解し知識を得るため、なんとかして人生を良くしていくため、そして他者と現実の認知を共有するためにしてきたことです。
したがって、芸術について、つぎのことを認識し、理解するという重要な拡充を加えることで、芸術の働きにより教育課程は質的に向上していきます。芸術はあらゆる形式の知が相互に連関しあっていることを肯定しているということです。芸術を欠いた教育というものが不完全であるというのは、こうした理由からなのです。
ある種の個人的な意味を抽出するプロセスとなるので、芸術は創造的な学習のための媒体として機能を果たします。そして芸術は生徒の創造性に富む精神的資源を活性化するので、彼らを惹きこんでいくことでしょう。芸術は自らの生きる力となるものです。それは過去や現在の生き方や、自分たちを取り巻いている生き方を探求し、未来を構想し創り出すことに生徒を仕向けていく、自らの可能性を開くものなのです。生徒たちは、芸術を通 して自分自身を次のように見なす学習をしていきます。民族に固有の芸術表現を通して交流したり、自分たち自身を表現して交流したりしてきた人々と、異なる文化を横断して絆を分かちあってきたのが人類であり、自分たちがそうした人類の一員として役目を果たしていると自分自身を見なしていくのです。このようにして、芸術は、生徒が自分たちの世界に確実に参加できるように彼らの能力を増進していくのです。したがって、芸術に他と同等の注意を払っている学校がよりよい学校であることは当然のことなのです。
元気なアート、元気な学校。この関係性を理解できているところでは、予算が制限された時に、芸術は最初に切りつめられるべきものとはなりません。むしろ、芸術は一般教育に不可欠な構成物として見なされています。芸術は単に天才や才能ある者たちのものではありません。数学や科学のように、芸術は全ての人たちのためになるものなのです。そして十分な芸術教育を欠くと、全体の基本的世界の理解を生徒に与えられないことを、理解の進んだ学校評議委員は分かっているで、予算の縮減が避けられない時には、切り捨ては一方的にされるのでなく、学校運営評議会に諮って決められなければなりません。
芸術とはお上品な掲示板ではありません。芸術は尊大という愚かさを象徴する七面鳥でも、幼児のかわいがる無害なウサギちゃんでもありません。芸術は軽薄なエンターテインメントでもありません。むしろ、我々の抱く恐れ、不安、渇望、苦闘、希望を表象しているのが芸術です。
 芸術は、現実的で重要な有益性を備えた意味の体系です。ゆえに、生徒に芸術分野を探究する手段を与え、それを奨励する学校が、より良い教育を提供できることになるのです。こうした説明もまた、芸術がアメリカの学校教育の卓越性の印となっている理由をかたるものなのです。

芸術の必要性

芸術は我々の人生に、そして学校教育になくてはならないものです。

 なぜなら芸術は、

・我々に一点に集まっていく思考というよりも分岐していく思考を教えることから。
・美学を応用できる能力と職人的技術(クラフトマンシップ)を伸ばしていくことから。
・他のどんな方法でも得られない知覚と理解を我々に経験させることから。
・より深くより幅広くすることで、我々の理解力を啓発していくことから。
・文化の中で、そして文化を越えて人間的コミュニケーションを促進することから。
・自分とは何かを定義したり、存在という自分自身の本当に特別な意味をはっきりとさせたりするのに役立つことから。
・昨日の自分、そして今日の自分を示していくことで、歳月と自分たちとの関係をはっき りと認め、この時代の特徴を示すことから。
・我々の精神を養育し、慰め、そして鼓舞することで、精神を新たに満たしつづけ、人間性を肯定することから。

----------------------------------------------------------------------


《関連記事》

 ☆元気なアート、元気な学校
by yumemasa | 2007-05-09 23:58 | 美術科の存在理由 | Comments(0)

「美術教育」や「自然」に関するブログ。人々がより幸せになるための美術教育について考え、行動します。北海道北広島市在住。中学校教諭32年、大学で幼児教育・初等教育担当8年。現在、時間講師。


by 山崎正明