「元気なアート、元気な学校」解題(その1)

アート・アドヴォカシーについてのノート:

アーツ・アドヴォケイト、チャールルズ・フォウラーの仕事



藤木 周

(美術学部)



 日米の比較は様々な分野と位相で実施されている。芸術の制度を巡っても、芸術の創造や教育、アートマネシジメントや芸術支援制度と政策、美術館や劇場の運営や芸術NPOのことなど、様々な論点でアメリカが参照され、日本の現状との対比が行われている。
 そうした中、芸術をめぐる言説において、米国において盛んであるが、日本において希少なものがある。いわゆるアート・アドヴォカシー文献である。
 本稿の主旨は、アート・アドヴォカシーという仕事を紹介することと、この領域を代表するものとして、チャールズ・フォウラー(Charles Fowler)の代表的エッセイを翻訳・紹介することにある。




フォウラー(1931-1995)は、中学や高校の音楽教師を勤めてから、ボストン大学で音楽の博士を取得して研究者となっている。その間に長く音楽教育誌の編集を務めるなど音楽教育の分野で、執筆やコンサルタントの重要な業績を残している。業績は音楽教育に限られず、特にアメリカ合衆国の学校教育における全芸術教育の現状についての大規模調査と分析など、芸術教育全体におよぶ貴重な仕事を残している。
 アメリカの学校教育における芸術教育の回復を目指す大規模な啓蒙的運動となった70年代半ばの「Coming to our senses (正気を取り戻そう)」運動の検証と追跡調査である『 Can we rescue the Arts for America’s children?(アメリカの子どもたちのために芸術を救い出すことが出来たのか)』は、今日でもアメリカの芸術教育を知る上で重要な研究文献の一つに数えられている。

 フォウラーの業績は、各論的な芸術教育の仕事以上に、教育における芸術の重要性を説く啓蒙的仕事、特に、学校教育への芸術教育の本格的な導入と、ひいては必修教科化という、アメリカ芸術界と芸術教育界の悲願を成功に導いた、アーツ・アドヴォケイト(芸術の唱道者)という仕事により、顕彰されている。こうした彼の業績は、メリーランド大学におけるチャールズ・フォウラー・コロキウムとして記念され、今日も芸術教育の革新に寄与している。
 米国において、アート・アドヴォカシーが形成され、日本においてそうした機運が生まれてこなかったことについては、日米の学校教育制度の相違にある。
 なにより、米国では日本のように美術や音楽が学校教育の中で必修化されていなかったという事実を知らなければならない。このことはつまり、長い学校教育の中で芸術は多様な選択教科の一つで」しかなく、学校は音楽や美術に触れずに幼稚園から高校卒業までを過ごす生徒を輩出することが可能であったということである。こうした20世紀後半の歴史的事実に、米国の美術館や劇場が、アウトリーチという地域社会や子どもをはじめ、マイノリティなど弱者へ向けた芸術の普及教育活動の展開を進め、美術館などの芸術施設が機関として教育的役割を重視してきた背景の一つがある。

アドヴォカシー

 を辞書的アドヴォカシーに解説すれば、賛成や支持を公的に話す・表すことを意味するAdvocate の名詞形で、「弁護、支持、擁護;唱道」という意味になる。現実的に主流となっいいる使われ方は、NPOの専門用語としてであり、公益や公共性に関わる市民活動団体等で、組織のミッションや事業目標を実現していくための「提言活動」という意味で用いられている。
1999年に邦訳出版されたレスター・M・サラモンの『NPO最前線:岐路に立つアメリカ市民社会』には「アメリカのNPOを理解するための基礎用語」としてキーワード集が付録されているが、ここにアドヴォカシーが項目として挙げられている。この本でのキーワード解説が、日本におけるアドヴォカシーの解説としては古い部類に入る。
 サラモンの著作では、次のように解説されている。
「本来の意味は唱道、擁護、支持等。最近では政策提言という意味でも使われている。雇用における性差別撤廃、動物愛護、地球温暖化防止など、特定の問題について政治的提言を行う。単に反「政府」、反「企業」という対立の構図ではなく、論理的・科学的な政策代替案を提示する市民活動。ある意味では、NPOの最もNPOらしい活動といえる」。1
また、生涯学習論の分野で、京都大学教育学部の渡邊洋子氏が論文「アドヴォカシー概念と成人教育」において、アドヴォカシー概念の詳細な紹介を行っているが、この論文にしても2002年という近年の出版である。
この渡邊論文は成人教育におけるアドヴォカシー概念を論点としているが、様々な分野でのアドヴォカシーの取り上げられ方についても検討しており、アドヴォカシー概念の入門的な邦語文献としても意義深い。渡邊は各分野でのアドヴォカシーを検討し、論文のまとめの段で、成人教育におけるアドヴォカシーについて以下のように定義している。
「成人学習の個人的・社会的意義や成人教育を振興する必要性・重要性について、政府、行政担当者、一般の人々、マスメディア、そして学習者自身に対し、様々な方法と活動を 通じて、理解を促し、求められる対応や施策を各々の持ち場で効果的に推進するよう、多様な形で働きかける、一連の戦略的な取り組み」。2
この定義からアドヴォカシーを理解するための本質的な特徴は、「運動」と「戦略」の2つにあると説明している。更に言うと、運動という特徴とは、無関心を克服する運動、社会の各層に理解と共感を広げる運動であると説明し、戦略という特徴については、以下のように説いている。

「まず、長期的な展望をもち、その実現のために戦略的になることである。そのためには、相手(政府関係者)より多くの正確で詳細で豊富な情報をもち、それを社会的文脈と必要な場面に応じて、わかりやすくコンパクトにまとめて、(相手に)求められたら常に提示できるようにしておくこと、説得する相手の観点から問題を考え、相手の言葉を使って意図を伝えてみること、こちらの意図と闘争方針を前もって明確に相手に伝え、反論の仕方を助言したり、政策の修正に備えて代案の選択肢を用意しておくこと、短期的には場面に応じて妥協や譲歩する寛大さを示すことなどが挙げられている、このようにして、「相手にとって欠かすことのできない存在」として、政府等と提携・協力関係を確立することによって、長期的には妥協することなしに、その意図を着実に理実のものにしていくという 戦略的プロセスが描かれているのである」。3

 アドヴォカシーは、弱者や少数者の「権利擁護」や「代弁」、福祉等の社会問題解決のための「政策提言」などを内容とする公益的な活動概念として、各種NPO・NGOにより、福祉分野などで導入が図られてきた。これは1998年の「特定非営利活動促進法(NPO法)」 施行に見るように協働・参画型社会の構築を推進する上での必然的な導入であったと言える。これを契機にアドヴォカシーは「政策提言」という意味が強まったが、行政といった既存制度からの政策提言ではないことを強調して「アドヴォカシー的な政策提言」などと使われている。
 アドヴォカシーという戦略的な運動を取り入れることで、行政との向き合い方は陳情や請願といった要請行動から、対等なパートナーシップの関係構築への移行が期待されることとなる。逆にいえば、パートナーシップの構築による問題の解決を重視することから、アドヴォカシーへのとりくみが促進されるのだとも言える。サラモンの著書に見るように、アドヴォカシーは対立の構図を前提とするのではなく、論理的で科学的な政策替案を提示することで、協働を前提としている。このことから公共性について独り行政のみにまかせるのではなく、新たな公共としての「市民的公共性」を構築していく上で、協働と参画を図るための政策提言としてのアドヴォカシーは、今後より広い分野で更なる実効性を増していくことが期待される。4

アート・アドヴォカシー

「芸術教育の個人的・社会的意義や芸術教育を振興する必要性・重要性について、政府、行政担当者、一般の人々、マスメディア、そして親や教師と学校運営の幹部に対し、様々な方法と活動を通じて、理解を促し、求められる対応や施策を各々の持ち場で効果的に推進するよう、多様な形で働きかける、一連の戦略的な取り組み」。
これは、先の渡邊論文での「成人教育アドヴォカシー」の定義を芸術教育用に修正したものであり、成人教育という言葉を、美術教育・芸術教育という言葉に置き換えている。
 芸術教育の振興という一般的な目標に求められるアート・アドヴォカシーの運動を解説するものとしても通用するのではないだろうか。
 米国におけるアート・アドヴォカシーは、芸術教育が学校教育内で不遇であったため、芸術教育のためのアート・アドヴォカシー運動として、大きく進展していった。しかも、 芸術教育不要論がわき起こり、実際に学校教育の現場から芸術教育が削減されていった1970年代からの米国芸術教育のアート・アドヴォカシー運動は、目標を芸術教育の必修科目化実現に定め、その活動を強化していった。
 様々な実現要求を持つ米国内の芸術教育の 学会や芸術関連団体をこうした運動目標で大同団結させ、運動の飛躍の契機を作り上アドヴォカシーげることが出来た要因として二つの出来事を挙げられる。一つは全米芸術基金やケネディセンターという連邦政府の組織が果たした役割であり、もう一つは芸術教育の分野にいわば新規参入を果たした民間芸術助成財団の影響である。この民間芸術助成財団は60年代半ばに登場した篤志家ジョン・D・ロックフェラー3世の財団と、70年代半ばに設立された石油王ジャン=ポール・ゲティの財団である。全米芸術基金は、芸術家や芸術創造団体への芸術創造の助成からはじまり、80年代から盛んに芸術教育の助成事業にも力を入れ始めている。どちらにしても芸術教育の外部から吹き込んだ風が、既存団体の連携を促し、総合的な運動にもり立てていったのである。このあたりの事情は、フォウラーの仕事、Can we rescue the Arts for America’s children? (American Council for the Arts, 1988) に詳しい。そしてこうした時代にチャールズ・フォウラーのアート・アドヴォケイ トとしての仕事が始まっている。

その動向は「巻き返し」と評されるように、学校教育のカリキュラム上、芸術教育はフリルと揶揄された飾り物の位置付けから、フォーカス/コアと表記される必修科目に移行するまでにその位置づけを高めた。
 また、それだけではなく、アート・アドヴォカシー運動は、芸術教育の個別的充実だけを目標とせずに、「芸術を通して学校を変える」という総合的な運動を進めたこともあり、芸術および芸術教育の重要性と意義を広めながら、公立学校の質的改善という教育改革にも寄与していったのである。
 こうした実績を残したアート・アドヴォカシー運動は、「芸術=良きもの」といったスローガンのような抽象的文言を唱え続けたのではなかった。多くの人から賛同を得ようとする対案としての政策提言活動であることからわかるように、時々の課題に応じた説得力を伴う運動を進めている。脳科学の知見を援用したり、学校や教育委員会といった組織への調査や、保護者や子どもへのアンケート調査をしたりと、質的研究や量的研究を重ね、芸術の重要性と、芸術教育として青少年が芸術に触れることの人間発達上の重要性などを様々に訴えている。時にはイメージ戦略も強め、誰もが尊敬している天才物理学者アインシュタインが、バイオリン奏者としても優れ、常に芸術に親しんでいたエピソードを使って、 「アインシュタイン効果」と謳って、学力増進と芸術に親しむことの相乗効果をアピールしてきたりもしている。
日本において今日の確かな学力の定着を目指す教育改革に与える影響も少なくない、米国の教育改革の動向で著名なのは、アメリカ版教育白書とでもいうべき『危機に立つ国家』 (1983年)であろう。これのもたらした衝撃は、党派にかかわらず全ての大統領が「教育における卓越」を実現しようと教育改革を手がけたことに現れている。そうした80年代以来のアメリカの教育改革において、芸術教育はカリキュラム存亡の危機を乗り越え「巻き返し」を達成し、今日の米国芸術教育はかつての転落から見れば最も正当性を認められた状況にあると考えられる。5

 それは何より、近年一連の教育改革を推進する法律によって、学校教育の必修教科として芸術教育が位置付けられたことが象徴している。
 1994年、第1期クリントン政権下での「Goals 2000: Educate America(2000年の目標:アメリカの教育)」法では、芸術教育が必修科目(Core Subject)として改革の成果が期待される8つ教科の一つに位置づけられ、学校教育のカリキュラムに不可欠な教科として公式に認められることとなった。
 さらに2001年、第1期ジョージ・W・ブッシュ政権下での「No Child Left Behind(落ちこぼれをなくそう)」法においてもまた、芸術教育は必修の一般教養教科(Core Academic Subject)の中に組み込まれたのである。

この2つの公教育上の成果が芸術教育における「アート・アドヴォカシーの大勝利」と評価されているのである。
 必修教科化という成果は、芸術教育がフリルという飾り物程度にしか見なされていなかったかつての状況から比べれば、格段の発展に違いない。
 なおかつ、昨今では芸術教育を正当な基礎教科となすべく、連邦政府として持っていなかった教育内容の最低基準と学習到達度の目標を明示する教育のナショナルスタンダードを作成し、芸術教育団体ではこうした教育改革の促進に即応する芸術教育基準(いわゆる指導要領)の助言や作成、教育改革法に対応した行動計画の策定などを通して、教科の量的拡張と質的深化を図り、学校教育内における芸術教育の正当性をさらに強化しつつある。6

日本では、ゆとり教育の実施に伴う理数系の学力低下懸念が沸騰し、学力論争が引き起こされたことは、米国の80年代教育改革動向の背景に通じるものがある。今日、PISA調査に起因する一面的な学力観がにわかに主流化し、社会的な学力不安に政治が応える形で教育の構造改革が始まっている。
 2006年から着手された学習指導要領の改定では、PISA(OECD生徒の学習到達度調査)における上位定着を目標とした、「学力の確かな向上」を図るカリキュラム改革が目指されることになった。
 しかし、この度の教育改革が日本の学校教育における芸術教育の存亡に新たな懸念を生じさせているのである。

 2005年10月、中央教育審議会の答申「新しい時代の義務教育を創造する」を受けて、各教科の指導要領の改定が準備されることとなったが、この一連の議論の中に、中学校での技術・家庭、音楽、美術といった科目を必修ではなく、選択教科として理数科目をはじめとする教科の充実や、社会的要請の高い環境や金融等の新科目を配置する意見などが出てきた。
 芸術教科の選択化移行という問題は、近年進んだ授業時間の削減以上に芸術教育界には衝撃的な問題であり、あらためて芸術教育の重要性や必要性を訴えることが、芸術教育全体の喫緊の課題となっている。ここに米国での教育改革を背景とするアート・アドヴォカシーに学び、その成果を活用していく必要が生まれてきたと言える。

日本でのアート・アドヴォカシーは端緒についたばかりであるが、例えば美術教育の分野を見れば、中教審の答申を背景に、美術教育の必修制維持と選択化回避を要請する動きが現れている。小中学校を主体として、幼稚園から高等学校までの美術教育に携わる教員などで構成する、全国的な造形美術教育の推進組織、「全国造形教育連盟」は、2005年10 月25日に、造形美術教育の必修制維持を趣旨とする「請願書」を中教審に宛てて提出している。7
 また、日本学術会議登録の美術教育研究団体である「日本美術教育学会」では、新しい指導要領策定の基本方針を審議する中央教育審議会教育課程部会が行った、中央教育審議会教育課程部会「審議経過報告」(2006年2月13日)に対するパブリックコメントに際して、学会としてとりまとめた意見を提出している。8
 これなどは、芸術科目は豊かな人間としての価値形成を担っており、その選択科目化や授業時間数の削減は不適切とするもので、芸術教科の周縁化に歯止めをかけようと、一定の理論的な提言を行い、一つのアート・アドヴォカシーとなっている。
 他にも美術教育関係者のホームページ上など、様々なレベルで学校教育における芸術教育の必要性とその意義が論じられ始めているが、こうした芸術教育科目の正当性を擁護する論陣の形成は始まったばかりである。

 学校教育が週5日制の実施となり、カリキュラムの総枠が狭まったにも関わらず、今日の日本社会が要請する教育ニーズは多角化し、外国語・環境・金融・司法などの分野が義務教育レベルで新に要請されている。そうしたことを見れば、今日のカリキュラム編成について、それが総合的なバランスから、教科の精選・集約へと転換する動向は避けがたいのかもしれない。こうした力強い動向に、すでに周縁化が進んでしまっている芸術教育を、学校教育の必修教科としてコア教科として維持し続けていくためには、芸術教育の正当性擁護の論陣のさらなる充実と高度化が必要なことは言を俟たない。


 ☆ 「元気なアート、元気な学校」解題(その2)

-------------------------------------------------------------------------
《関連記事》

「学校から図工・美術教育が消えたら」
by yumemasa | 2007-05-10 00:58 | 美術科の存在理由 | Comments(0)

「美術教育」や「自然」に関するブログ。人々がより幸せになるための美術教育について考え、行動します。北海道北広島市在住。中学校教諭32年、大学で幼児教育・初等教育担当8年。現在、時間講師。


by 山崎正明