「元気なアート、元気な学校」解題(その2)

「元気なアート、元気な学校」文献解題


さて、本稿が紹介するのはチャールズ・フォウラーの最後の著作である ‘Strong Arts, Strong Schools :The Promising Potential and Shortsighted Disregard of the Arts inAmerican Schooling’ (Oxford University Press, 2002)より、標題にも採用されたエッセイである。
 
本書は、学校教育を通して、全ての子どもたちに芸術を教えることの重要性を訴えるものであり、社会とその将来への見地から芸術教育の価値と重要性を説く、フォウラーの仕事を代表する著作だと言える。




  4部18章に編纂された本書において、紹介する「元気なアート、元気な学校」は、第2部の「正当性」に収められた、第5章目の文章である。
 この部分は教育という観点から芸術がなぜ必要で重要なのかを、教科の正当性について、理論的に解説する部分であり、いってみれば本書の中核的論議である。
 しかし本論は、特に込み入った説明をする難解なものではなく、事情に通じていない一般読者に向けた分かりやすい論旨である。これは、アドヴォカシー文献として重要な、当事者のみならず理解の和を広げることの重要性を熟知した、フォウラーならではの仕事と言えよう。

さて、日本において芸術教育は、ダンスや演劇といった分野が欠落しているという重要な問題があるが、美術と音楽についてはとりあえず、学校教育内に確保されている。
 また、美術館や劇場、音楽ホールでの普及教育活動も充実し始めている。しかし学校教育内での芸術教育の地位は、決して主要なものではない。また芸術文化施設での社会教育としての芸術の教育普及活動も、資金や人材の脆弱さなど様々な問題を抱えているのが実情である。
 いってみれば、社会における芸術の基盤は弱いのである。今後の行財政の構造改革を展望すれば、教育や芸術文化行政の在り方においても変革が進み、地域の独自性を発揮させるという地方分権から、教育において地方自治体が担うべき領域が一層広まることが予想される。そのとき社会における芸術の基盤が弱いままでは、外国語や理数系教育充実の割を食うような、芸術教育の軽視が一層進んでいくことも考えられる。

 一方で、学校教育から外に出ると、伝統的芸術文化から現代のポップカルチャーを含めて、今日ほど芸術文化への社会的な期待が高まっている時代はない。
 GNCという新たな国力概念を提出したダグラス・マッグレイの「世界を闊歩する日本のカッコよさ」で論じられた、ジャパン・クールの衝撃的な評論をはじめ、芸術文化は新たな輸出商品として成長が期待されている。芸術文化は知財戦略の要となるコンテンツ産業の母胎として、そして ソフトパワーを発揮する国際政治外交の強化ツールとして、従来等閑視されてきた経済や 政治の領域からも注目を集めているのだ。9

 映画・映像や、マンガ・アニメ、キャラクター・ デザインなど、美術大学をはじめとする高度な専門家養成の現場でこうした新学科の設置ラッシュが起きたのもこうした、芸術文化への現代社会における期待の高まりによるものである。
 今日、芸術文化は実体経済との結びつきを強め、その振興として2001年には「文化芸術振興基本法」が成立し施行されるなど、現代社会の情勢として、学校教育における芸術教科の選択化も止むなしとされる芸術文化軽視の環境ではないはずである。こうしたことは現代日本社会の独自の情勢であるが、芸術文化の多様なコンテンツを知財として、輸出産業の一角に育成しようとするとき、多様化・高度化する芸術文化のリテラシーを、義務教育が担う教養レベルで維持していくためには、現行のカリキュラムの枠内の中で対応しきれるものではないことは明かとなっている。芸術教科の授業時間削減阻止と現状維持ではなく、充実を求める根拠の一つには、こうした多様化し高度化する芸術文化に対応する芸術教科として、それが現代化した十分な特性を発揮するためには、授業時間の削減がネックとなっているという量的・質的双方の切迫感があるからである。
 芸術文化がコンテンツ産業の母体となり、雇用の創出や波及効果などで経済的意味でも実体的な存在感を高め、芸術文化それ自体の社会的な有用性や意義が目に見えやすくなったことは、芸術教育の正統性擁護の論陣を強化する環境要因である。このようなポップカルチャー型の芸術文化への期待がある中で、なおも本質的な人間性の芸術の社会的基盤の強化を論じることは、青臭い議論に見えるかもしれない。
 しかし、今回チャールズ・フォ ウラーを援用して言えることは、芸術の社会的基盤を強めて確かなものとするために根本的に必要と思われる、創造的なものへの敬意、創造性への敬意が人々のマインドに定着しているかが懸念されるからである。

フォウラーは、「芸術は単に重要なだけではない。それはつまり、人間という存在において中心的な力といったものである」という言い方をして、芸術の本質的な重要性を表明し続けていた。そして教育的場面では、「敬意について教えてくれるのが芸術」であると説明しているが、芸術の重要性の認識が広まるためには、創造性への敬意を育んでいく芸術の実践を、多角的に論じていくことがアート・アドヴォカシーの本質的な問題なのである。

 芸術教育はそうしたところにこそ深く関わっていくべきだという、フォウラーの芸術教育におけるアート・アドヴォケイトとしての一連の業績には充分な説得力と重みがある。
そして、フォウラーなど多くの研究者や芸術教育実践者、さらには文化人や経済人までも巻き込んで展開した米国のアート・アドヴォカシー運動は、いわゆる国力としての「文化力」論議に矮小化させずに芸術の重要性を訴える議論を、社会各層に浸透するように、実に多様な形で展開させてきた。こうしたアート・アドヴォカシーの蓄積に、日本の芸術界が学ぶべきものは少なくない。

 最後に、フォウラーのエッセイにある、芸術の必要性を箇条書きでまとめてあるものに呼応するものとして、全米芸術教育学会のホームページにあるアドヴォカシー文献から、米国を代表する美術教育研究者であるエリオット・アイスナーの議論の一説を紹介したい。
 元となっている論文は、アイスナーの著作 ‘The Arts and the Creation of Mind’(Yale University Press, 2002)の第4章「芸術は何を教え、どのように示しているのか」から、まとめられたものである。10フォァウラーのスタイルを踏襲しているが、アイスナーは美術教育を行うことの有用性と重要性を10項目にまとめている。フォウラーのエッセイと同様に、芸術の重要性擁護のためのツールとして充分に活用できるし、フォウラーの論文を理解する補足資料にもなるのではないだろうか。


「芸術から得られる10の教訓(エリオット・アイスナー) 」

1.芸術は子どもに質に関わることについて、良い判断が下せるように教えてくれるものである。多くの教科では、正確な解答や規則が優先されるのと異なり、芸術では、規則よりも判断力が優先される。

2.芸術は子どもに、問題は時に一つ以上の解決があり得ること、問い掛けには時に一つ以上の回答があり得ることを教えてくれる。

3.芸術は多角的視野を持つことを良とする。芸術の重要な教訓の一つは、世の中のことを知り、理解するには多くの方法があるということである。

4.複雑な形態の問題では、解決の目的がほとんど定まらず、むしろ状況や機会に応じて変化させても良いことを、芸術は子どもたちに教えてくれる。能力と意欲を作品が展開していくときの予期せぬ発展性にゆだねていくことが求められるのが、芸術を学ぶということなのである。

5.文字という形式の言葉や数字では、知り得たことを不毛にすることしかできないという事実があり、芸術はそれを生き生きとさせることが出来る。我々の認知の限界は言語のこうした限界によって定められてはいない。

6.芸術は、時に小さな差異が大きな効果を生み出すことがあることを生徒に教えてくれる。

7.芸術は、素材を通して、そして素材の中で考えることを生徒に教えてくれる。全ての芸術形式は、イメージを実体化するためのなんらかの手法を利用しているのである。

8.芸術は、言い表せないものを言葉にするために子どもたちが学ぶのを助けてくれる。
芸術作品が子どもたちに感じさせたものを明らかにするように求められれば、子どもたちは目的を達することが出来る言葉を見つけようとして、自身の詩的な潜在能力を手にしようとしなければならない。

9.芸術は、我々が他のどんな源泉からも不可能な経験をさせてくれるのであり、そうした経験を通して、我々は感じるということの能力の幅広さと多様性を発見できるのである。

10.大人が重要であると信じていることを若者に象徴的に示しているものが、学校教育における芸術の位置なのである。




1
レスター・M・サラモン『NPO最前線:岐路に立つアメリカ市民社会』p.17-18、岩波書店、1999年
2
渡邊洋子「アドヴォカシー概念と成人教育」『京都大学 生涯教育学・図書館情報学研究』vol.1. p.88、2002年
3
同上p.89
4
本稿では、紙幅の制限上検討できなかったが、宮崎刀史紀「芸術文化領域におけるアドボカシー活動の可能性」(『演劇センター紀要』第IV巻、pp.145-152、早稲田大学 演劇博物館 演劇研究センター、2005年)での研究がアート・アドヴォカシー研究として充実している。
5
山口健二、赤木里香子「学校教員の職能開発機関としてのアメリカの美術館:20世紀末の美術教育改革動向を背景に」(『美術教育学』第25号、pp.441-454、2004年)において、美術教育の巻き返しについての論及が部分的にされている。合わせて以下の研究も参考のこと。山口健二「世紀末アメリカにおける美術館の組織転換」(『岡山大学教育学部研究集録』第122号、pp.185-194、2003年)
6
こうした動向を端的に論じたものとして、Douglas Herbert ‘Finding the Will and the Way to make the Arts a Core Subject: Thirty Years of Mixed Progress’ (The State Education Standard, Vol.4, No. 4 Winter 2004) がある。
www.nasbe.org/Standard/Past.html
7
全国造形教育連盟の公式ホームページにこの「請願書」を確認できる。
http://members.ld.infoseek.co.jp/zenzouren/index.htm
8
これは、日本美術教育学会の公式ホームページ、ニュースブログ(日本美術教育学会
webニュース)2006年3月29日に確認することが出来る。http://aesj.exblog.jp/m2006-03-01/
9
ダグラス・マッグレイの論文が訳出され掲載されたのは、総合誌である「中央公論」(2003
年5月号)であり、このときは他者の論考と共に「日本文化立国論」という特集が組ま
れている。このことは、ポップカルチャー型芸術文化への社会全体からの注目の証左で
あろう。
10
Elliot W. Eisner ‘What the arts teach and how it shows’ (The Arts and the creation of mind. pp.70-92. Yale University Press, 2002)


付記
 チャールズ・フォウラーの「元気なアート、元気な学校」全文を原著から翻訳するにあたって、オックスフォード大学出版より、学術翻訳出版の許諾をいただきました。
 なお、6点の図版は紙幅の都合上省略いたしました。

By permission of Oxford University Press Inc.
Chp.5, pp.46-56, “Strong Arts, Strong Schools” from ‘Strong Arts, Strong Schools: the promising potential and shortsighted disregard of the arts in American schooling’ (2002) by Charles Fowler.
Commented by 斎藤啓代 at 2007-05-10 20:52 x
  元気なアート、元気な学校すごいですね。でももっともです。芸術は、その場にいる人たちで別々の価値を共有できるから、思いやりだし、認め合い、信じる人がいると、人は強くなるから、元気もでますよね。いい文章ありがとうございました。
Commented by yumemasa at 2007-05-10 22:07
この文章いいでしょ!よし!って感じで読みました。
なんかヒューマンで。
石狩の研究で「心を育てる題材」という言葉を考えたのだけれど、よしこれでいいんだ!って思いました。
by yumemasa | 2007-05-10 01:32 | 美術教育の危機 | Comments(2)

「美術教育」や「自然」に関するブログ。人々がより幸せになるための美術教育について考え、行動します。北海道北広島市在住。中学校教諭32年、大学で幼児教育・初等教育担当8年。現在、時間講師。


by 山崎正明