教育再生? 今の若者、悪いことだけ?学校はダメ?
2007年 06月 02日
こんな素晴らしい若者の姿はマスコミを通しては表に出てこない。
一頃、「運動会は手をつないでゴール」という私も聞いたことがないような例を偉い方々がとりあげ、学校教育を批判していました。(なんと現場を知らないことか!)さすがに昨年の国会で、またしてもこの例を取り上げた発言に厳しい批判があった。
さて「徳育」は教科書で教えるのでしょうか。そう言っている方々にこのような教育現場の姿を見て欲しい。もちろん当日だけでは不十分。それに向けての練習で集団の中で起きるさまざまな葛藤。それを解決していこうとする姿。もめ事も起きます。でも、それを乗りこえてこその当日。それをサポートするのが教師の仕事。もちろんいつもうまくいくとは限らない。当たり前ですが…。
例えば「徳育」の教科書を子どもに読ませて「協力は大事ですよ」「責任を持つことは大事ですよ」。それで通じるとでも思っているのでしょうか。
昔の企業のように自分を押し殺して会社の言うことを素直に受け入れるたり、愛国心を持って、お国のためなら自分の命を投げうつような人材を育てるならば、徳育を絶大な力で推し進めることがよいのでしょうが。
子どもたちは生きています、いろいろな感じ方や考え方があります。そこからスタートします。徳目があって、その徳目のために生きているわけではありません。
子どもの生の姿をじっくり見ないで教育を語るえらい方々にぜひ見ていただきたい。学校現場を。でも見るべきは有名私立などではないです。 (再生会議で視察した最初の学校は有名私立校でした)
普通の公立学校の現場の子どもたちの姿を見て、何を学んでいるか、見ていただきたい。
感性や想像力・分析力を働かせて。数字ではわからないことがたくさんあります。
体育祭を漫然と観ているだけでは、わからないことがたくさんあります。単に一生懸命だとか、運動能力とか…それだけではありません。数字主義とは違います。
学力、学力、学力、徳育、徳育、徳育…
で、このような行事の価値も見直していただきたいなと思います。
日の丸や君が代を尊重しなければ愛国心がないと判断されたり、処分されたりするのは怖いということです。東京では教師のホームページも点検されているようですから。議会の議事録を読んで驚きました。
まあ、何も意思表明をしないほうが無難です。
もちろん自分の住むところを大切にしていくことは大事ですよね。道徳の時間にいろいろな価値に触れて価値葛藤するのも大事なことでしょう。自分以外の方の考えに触れるというのは大賛成です。
徳育そのものよりも、徳育を唱える背景が気になるのです。純粋な考え方で発言されている方がほとんどと信じたいです。私の危惧であればよいのですが。
「教科」になる、というのは通知表に成績が載る、それによって人格が「評価」されるということになるのじゃないでしょうか…。わざわざ教科にするなんていうのはそういう意味なのかと感じたのですが。心に点数をつけることなんて本来不可能だしあってはならないと思います。もし、教科にするということが点数をつけることなのだとしたら、その「評価の基準」も為政者が為政者の都合のよいように決めることになってしまうのではないかと恐れます。
教科にするという意図が本当に「点数をつける」ことなのかどうかはわかりませんが…。
ですから怖いのです。私のなどの徳育が点数化されたら恐ろしいことになるでしょうね。
しかし、この徳育を強調することより、もっと体験を通して学ぶことを大事にしてほしいのです。
最初から今の教育はダメが前提ですから…。でも見直すと価値あるものはたくさんあるのですけれども。
教科に組み込んだ理由の一つとして、教師側に対する取り組みの強制があると感じます。本来ならば学校という社会縮図の場そのものが、いわゆる「徳育」としての学びの対象であるはず。そうした背景に埋もれがちな(と思われがちな)学校教育の意義を前景化する行為。メディアを通して大衆に「徳育」に対する自覚的な目を与え、教育現場への監視を強める、プレッシャーの何物でもない。
なにせ、「徳育のプランは特に決めておりません。各学校現場で自由に特色あるカリキュラムを考えてください」だそうですから。
会議のメンバーにどうして教育現場の方々がいないのか、そこが不思議でなりません。教師など信用していないというような考えの方もメンバーにいらっしゃるようで。そのような反映でしょうか。
例えばこの体育祭をつくるにあたり、子どもの中にどんな力を育むべきかなんて論議が現場でされているのは、想像できないのかもしれません。