その子でなければ描けない絵
2019年 02月 16日
絵の前に立って、指導されたときのことをお聴きしました。
私が聴いたのは子どもの表現意図でした。
子どもは描きながらその描いている瞬間を楽しんでいるでしょうし、完成した後も先生から共感してもらえています。これなら描くことが好きになりますね。
実は、この作品にはコメントをつけていたのだそうです。見たかったなあ。
私は、先日の失敗を話しました。「完成しました!」「じゃあ、そこに置いておいて」
同じ会場に3年生が描いたシャボン玉をふいている絵がありました。一見すると上手に見えますが、同じような絵が違う学校から出品されていました。そこから子どもの姿は見えてきません。俯瞰した構図で頭を逆さにし、シャボン玉を遠近感を持って描いているのは小学校3年生のなせる技ではないでしょう。描かされた子どもの心に何が残るのでしょう?酒井式の絵です。
さて、ここで紹介した絵は、その子がこの世に生きていて、その子でなければ、その年齢でなければ描けない絵です。
ブログだけでなく、創生地までお越し頂きありがとうございます。
頂いたコメントより、取組み方は異なれど目指す先は一緒のようで嬉しくなります。
そこで失礼かもしれませんが、不粋な質問を一つさせて頂きます。
子供達の作品には、値段を付けられるものなのでしょうか?
その作品に金銭的な価値を付ける行為自体を子供達は望んでいないと思いますので、そんな純粋な作品に値段を付ける事を考える事自体、大人の愚かな考えだとは思います。
ただ、学生の頃から自分の作品を売る(責任を持つ)という認識を持たす事は、美術教育の中で少なからず意味を持つ部分ではないかと考えた次第です。
(もちろん、純粋に絵を描く楽しさを教える事が大前提で、大優先ですが)
ただし、東欧のどこかの国で生活の糧として子どもの絵を売っているそうです。
私は高校生の頃、アクセサリーをつくって、札幌の繁華街に、布を敷いて作品を売ったり、(こわいおじさんがやってきて、いろいろと言われたので数日でやめました。もう時効ですよね。)アクセサリーショップに作品を置かさせていただいたことがあります。
でも、売れるという理由でたいしてつくりたくないものを、つくっているうちにやめてしまいました。
創生地では、大人の方が作品を売るという行為を通して、生き甲斐などを持つという意味で、その果たす役割は大きいと思います。私の妻もつくったアクセサリーを売ってはいますが、しかし、収入を得ることが第一の目的ではないです。モノをつくる、買っていただく、喜んでいただく、そのようなことこが楽しいのだと思います。人の輪も広がっています。
「豊かな美術教育を」では「リンク集」に力を入れているので、そちらを見られるとよいですよ。私も刺激を受けています。大堀さんと知り合えてよかったです。それから、絵を見るのもそうですが、絵を通して対話することも面白いですよ。そうすることで、子どもの表現で何が大切なのかが見えてきます。技法の指導じゃなくて、目の前の子ども達にどんな題材が必要なのか、適切なのかを考えていくと勉強になりますよ。
このブログではいろいろな方々の実践も紹介していきますので、時々見て下さい。人の役に立てる、わかりやす内容をめざしていますので。一人でも多くの方が図工美術のよさを広めてくれたらと思っています。
先日私が記載したコメントは、私が思う以上に失礼に値すると思うので削除させて頂きました。
貴重なご意見ありがとうございました。
創生地の学生を対象にした取り組みとしては、主に専門学生や大学生を中心としたものですので、決して義務教育過程における子供達を対象にしたものではない事をご了承下さい。作品を眠らせてしまうというものも、私自身の学生時代を振り返ってのものです。
それでは今後も先生のご活躍応援しています。
アートを愛するのは何も芸術家(?)だけではないと思うのです。そういう意味で多くの方々に生き甲斐をもたらす「創生地」さんの取り組みはこれからも大事にしていって下さい。
私の妻は一応工芸家(作家)ですが、実はひょうんなことから、はじめたアクセサリーづくり、おもしろいと言っていました。正直、それまでは、そのような世界を下に見ていたようで、ずいぶん損をしたと言っていました。素直な心境だと思います。
私のおばや母が趣味でやっているものづくり、明らかに生きる喜びとなっています。
まだまだ生まれたてのよちよちサイトですが、先生がおっしゃられるように、多くの方々に生き甲斐をもたらせるようなサイトに成長できるよう努力していきます。
このサイトを運営するようになってから、今までまったく関心のなかった分野まで興味を持てるようになりました。
また物作りの世界はどんな世界でも奥深く、あらゆる可能性を秘めているものだと作品を通じて学ばせてもらってます。
何かを新しくはじめた事により、異なる世界の素敵な部分を発見できた奥様の感動と、同様のものを味わえているのかもしれませんね。
それでは、また。