様々な立場の方で「美術教育」の価値を考える。 まずは5年間 |

美術教育の意義や価値や可能性について美術教育の関係者以外の方が中心になって考える。そのことの意味は大きい。
外とつながりながら共に考えることから、気がつくことも多い。そのようなことを本気で継続的にやる、そこが肝だ。この研究は5年計画で具体的な検証を進めていくことになる。
研究メンバーでシンポジウムを振り返った。(ワールドカフェで、ファシリテーションは永谷研一さん)
さらにその後の懇親会でも異業種の方々と話続けた。面白くてしかたがない。元気が出てくる。
いろいろな職業の中で成果をあげている方のお話を伺っていると、美術の授業の構成ときわめて近かったり、大切にしているポイントが似ていることも多かたり、非常に面白い。職業も地域も年齢も違う中で、見えてくることの面白さ!
この研究をモノにしたい。いや、そうしなければならない。
シンポジウムの振り返りから、生まれてきたキーワードをあげてみる。ただし、私のメモ。ほんの一部でしかない。他のテーブルでは何が話されているのだろう?
失敗体験は大切で、失敗を振り返ることから学びが見える
図工美術の時間で他者のことがわかる
芸術思考という言葉が難しい印象を与えないか?
失敗を恐れないという環境をつくることが大切
自主性、自発性の重要性
必要ならば人は学ぶ
自己肯定感を育む時間
感性は育てるもの 子どもの感度をあげる

「芸術思考」という言葉ですが、無糖隆先生の「身体知」と同じ意味の言葉だと感じます。私の師匠の蛭田二郎先生は「内触覚性」という言葉で彫刻を教えてくださいました。最近では、生態学的なつながりとして、人が環境と切り結び合う状態という意味を与えています。「虫が好かない」とか「腑に落ちない」というようなニュアンスで世界との関わりを整理する。それが感性であり、自己肯定感や自主性の基礎であり、図工の時間が提供している環境だと思います。つまり「図工美術の先生」「素材」「題材」が環境として利用可能な意味と価値を持つ時、子ども達は「永日感」(集中して遊び1日を長く感じること、いくらでも遊んでいいと感じること)を伴って、芸術思考を行うのだと思います。
ぼーっとしながらお話ししたいですね。
今日は暖かいので、のんびり反芻するには良かったのではないでしょうか?
いろんな業種の人と話すと色々刺激があっていいですよね。
そういう色々な商売の人と話すと『見ている人は見ているものだ』ということがよく判ります。
別に人の評価を気にする必要はないんですが、『誰かが見ている』事を意識することで、『自分の中の第三者の目』を養う…というか。
他者や社会を意識することで別な何かが出てくるかも知れないことを意識するとも言うべきか…
『枠に囚われない』ために『その枠を知る』という事も時に必要なのかも知れません。
そういう中から生まれるであろう、自己表現の極致のほんのかけらでも見ることが出来たなら、一体そこには何があるのでしょう?
まあ、私自身はそれを知ることはないとは思いますが。
要は、自己表現のための学び、とは斯くも長いものだということなんですかねぇ…
さてはて。
