北川民次の言葉
2016年 01月 05日
名言選は山口喜雄教授の提案のもと宇都宮大学美術教育専攻4年の吉澤友希さん細田すみれさんがセレクトされたものです。(感謝)

アメリカ児童の作品は、私もしばしば見ておりますが、美しいと思います。
いかにも自由で幸福です。私の学校で描かれる絵は、それに比べると美徳でも幸福そうでもありません。しかしこちらの物には、何となく訴えてくる迫力があります。アメリカの児童画は、いわば気楽な遊戯であり、広い自由の中で勝手気ままに楽しんでいるようです。タスコの児童は、この世からもっと大きな自由を得ようとして戦っている絵を描きます。だからそこには緊張があり、真剣さがあり、アブストラクトの美を追求するより、どこまでも現実に喰い下がる迫力を示します。
この二つのどちらが児童画として好ましいかを決定することは、私にはできません。ただメキシコでは、私の学校の作品のようなものの方が可能であり、有能であると思われます。児童には自由を与えなければならないけれども、それらは児童自身の力で獲得されなければなりませんし、メキシコの児童は、常に自由を得るために戦っていないと、すぐ退屈するか萎縮してしまいます。そして彼等の絵は、いつでもその戦いの中から生まれて来るのです。
私はアメリカの児童教育が、すばらしく進歩していることは認めますが、又多少の疑問をもたないわけでもありません。美術作品を見ると、彼等が自由であり、幸福であることはわかりますが、それらは、自由を得るための努力から生れた作品に乏しいようです。アメリカ児童が与えられた自由をよく身につけ、それを充分に教授する才能を持っていることは賞讃に価いします。
しかし彼等は、未だ与えられない自由に肉薄する気魄を示しません。(中略)
自由とは固定したものではありません。常に動いています。又それを獲得しようとする児童の心も常に動いています。絵を描く時は、彼等も困難にぶっつかり、真剣に考えます。木の葉を描く時には、数十種の緑の中から、唯一の緑を選びとるでしょう。私にはその緑がどの色であるかを説明することはできませんし、なぜそれでなければならないのかも説明できません。ただ私にはそれが美を表現する希求の現れであると同時に、自由への希求であることがわかります。

ある児童が、もうどう描いていいかわからなくなったといって、一枚の描きかけを持ってきて、教えてくれとせがみました。私はその絵を見ながらパレットと筆をとりましたが、何も描き込みはしませんでした。しばらくのあいだ絵をじっと眺めていましたが、「自分の絵は自分で描け」とも「君の思うとおりに描きたまえ」とも言いませんでした。私は困ってしまいました。
絵をお描きになる方ならどなたでも御存じでしょうが、美術には割り切れる問題などというものはありません。どんなに幼稚(単純)な児童画でも、その制作過程で出会うつまずきを救うのは教育的に甚だ困難です。美術教師たるもの、このことは身にしみて感じられているはずです。そこで私は、「困ったねえ。これは僕にも、どうしていいかわからないよ」と思わず言い放つのでした。この場合、私がわざとうそをついたのではないことはおわかりでしょう。
かれは息を殺して私の返事を待っていましたが、この声を聞いて、たちまち元気づき、「わかった、わかった。こうすればいいんだ。僕はこう描く」と叫びながら、私の手から絵を奪い返して以前のところへ馳せ帰りました。かれがその日に仕上げた絵はすばらしいできばえでした。おわかりでしょうが、この児童は私の意見を求めるまでもなく、どうしようかほぼ見当はつけていたのですが、ただ少しばかり自身が足りなかった。ところが私にも、それが彼と同様に難問題だと知ると、たちまち自信を得て、自分の創造力を活かすことができたのです。かくて私は、かれに自由を経験させました。

私は美術家ですから、自分の経験を述べてみましょう。私には時たま、きわめて不たしかではありますが、ある感動が起こります。その時はまだ、美術的意識はちっとも問題にならないし、てんでそんなものが働いていることには気がつきません。それでも私は筆をとって描きはじめます。一筆一筆と色を重ねていくうちに、だんだんと何かに働きかけられていることに気がつきます。なおいっそう描きつづけると、「そこの色はよろしい」「ここがまちがっている」と私に呼びかけてきます。人々はそれを絵に対する批判力だとか知識であるというでしょう。しかし、その批判力や知識のうしろにいて、それらを牛耳っているものは、たしかにこの美術的意識であります。それらは、ちょうどフロイトのいうスーパー・エゴ(超自我)と全く一致して、われわれのエゴの中にいながら、まるで外からの呼びかけのように命令を下してきます。
美術的意識は私どもにとってかような働きをしています。そして、もしわれわれがもっとよく気をとめて研究するならば、私に最初に起こったごく不たしかな感動もまた、この美術的意識の蠢動(しゆんどう)ではなかったでしょうか。これでみると、この意識はわれわれの精神のよっぽど深いところに巣喰っているものにちがいありません。それが頭を出してくるときには、私はいつでも極度の精神的緊張を要求されます。そしてまた、この助けがないかぎり、われわれの真の美術活動は不可能です。














