指導観・子ども観の違いで絵がこんなに変わる!

 この夏参加した「あつく美術教育を考え語る会」で、「運動会」の絵をめぐって、教師によってこんなにも絵が違うのか、ということを実感しました。

同じ「運動会の絵」でも…

その話し合いの中で、頭に浮かんできたのは福本謹一先生(兵庫教育大学)がつくられた下の表です。
 実は以前からこの表は、美術教育の様々な考え方の違いを鮮明にするのに、非常にわかりやすいものであると思っていました。
 研究会などで、話し合いが噛み合ないときはこの表にあてはめて考えるととってもわかりやすいです。
 それは、つきつめると図工美術教育のあり方を問うものとなるからです。

福本謹一(兵庫教育大学)「絵画表現の指導と実際」
『美術教育の理念と創造』 黎明書房1994・P199-205
*全文P196ー207

 福本謹一先生ご了解を得ましたので、記事として転載させていただきました。なお、実際の書籍には、文中に出てくる(写真1、2)は、インターネットで公開するにあたり、削除してあります。

 写真1の絵は、絵を描いている姿を互いにモデルとなって描いてた絵です。絵を描いている友達ですから、その絵の中にまた絵が描かれています。「小学校1年生なのに、こんなにしっかり描いているんだ!」と思われる絵と言えるでしょう。

 写真2の絵は、小学校1年生なら、よく見られる絵です。自分の姿を書いているのでしょう、雨の日の情景ですが、横でかえるがぴょんととびはねています。

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(2)絵画の指導

■指導観、子ども観の違いで絵がこんなに変わる 図画工作科、美術科の絵画指導の意義をふまえながら指導をしているつもりでも、先生個々の指導観や子ども観の違いによって子どもの表現は大きく異なってくる。

 小学校1年生の絵をてがかりにして、絵の表現がどう違ってくるのかを見てみることにする。
この2枚の絵(写真1、2)は、「えをかくともだち」と「えのおてがみ」という題材のなかで生まれたものだが、一方は観察の絵、他方は生活の絵という分類でとらえるのではなく、指導過程を見据えながら題材の裏にある指導のねらい、先生の指導観や子ども観について比較して、学年にふさわしい絵画指導のあり方を考えてみたい。

 「えをかくともだち」は、授業で四つ切りの画用紙に描いた絵で、「えのおてがみ」は日頃から先生に伝えたい内容を見つけて小さな紙に描いたものである。これら2枚の絵を詳しく観察してみると、友達をモデルにして見て描く絵と、生活からテーマを見つけて経験を表す絵の指導の一般的な指導方法から生まれたものでないことは容易に察することができる。実際の指導過程を予想して、定型的な方法と比較したものが表1である。

「えをかくともだち」の学級の絵は、細かい点で個人差はあるものの、身体のポーズや画面構成、あるいは輪郭線の色からセーターの一本一本の線の色の順序までどの子どもも一致している。先生の言葉かけがそのまま伝わってくるようである。
「えのおてがみ」のほうは、「お父さんと一緒にお風呂に入った」、「お兄ちゃんと喧嘩した」、「庭の木に鳥が巣を作ったよ」・・・とひとりひとり知らせる内容が違い、作品というよりも伝言板のようなものであるが、子どもたちそれぞれの生活の様子、興味や関心の対象などをうかがい知ることのできる貴重な資料でもある。
指導観・子ども観の違いで絵がこんなに変わる!_b0068572_1593554.jpg




■「じどうが」vs「しどうが」

 これら2枚の絵の指導過程の違いは、先生の指導観や子ども観だけでなく、実態把握の仕方、さらにはそれに基づいた指導目標の違いによって導かれる。
 それをまとめてみたのが表2である。
指導観・子ども観の違いで絵がこんなに変わる!_b0068572_241475.jpg
どちらの先生もしっかりとしたねらいをもって指導をされていることがわかってくる。問題は、低学年という発達段階を考慮して、子どもたちが美術に親しんでいってくれるかどうか、進んで絵を描く子どもになってくれるかどうかを考えるとき、どちらの指導がふさわしいかということである。

 「えをかくともだち」の絵の上下を逆さまにしてみると、その絵のなかの友達が描く子どもの姿が見える。その表現には、描き手である子ども自身の飾らない姿が表れている。子どもの未熟な表現を先生の願うような絵にすぐさま導くことが指導だと考える人もいるが、それでは作品として立派なものはできても、いつも受け身で、いわゆる「指示待ち」の子どもにしか育たないのではないだろうか。
 子どもたちの素直な表現から出発して、経験、体験のなかから絵の主題を見い出し、絵に表す工夫を子どもたちが主体的に発見していく過程を大事にすることは、低学年の指導というだけでなく、絵に表す指導の基本になる。子どもの絵は、先生から見れば稚拙かもしれないが、先生の好みばかりで「作品」を追い求めると、「じどうが(児童画)」が、先生には不満に見える部分、すなわち「濁点」を取り払われて、「しどうが(指導画)」になってしまうのではないだろうか。この濁点は、大人の眼には「濁った点」でも、子どもにとっては創造性や個性を育んだり、絵を描く自信につながる素である。むしろ先生自身の眼の「濁り」を取り除く努力をして、子どもの絵に表れたよさを見つけるようにしたいものである。

■発達段階に応じた指導をめざして 自己表現を促す指導の理念をふまえて、子どもたちの発達段階や思考や技術的な実態を考慮した指導が求められるのは言うまでもない。
 生活の絵の指導では、「母の日お母さんを描こう」「運動会楽しかった様子描いて」と先生が決めたテーマへ収斂させるのではなく、子どもたち個々の想いを大事にする投げかけが必要なことは「えのおてがみ」の実践からもわかる。ひとりひとりが違った経験を絵にしてくれれば、子どもたちの興味、関心が今どこにあるのか、どんなことに悩んでいるのか、家族とのかかわりがどうであるのかなどを知るてがかりともなる。低学年では、こうした自分が見つけたこと、したことが中心で表現をするが、中学年では、友達や家族と一緒にしたことなどが描く主題として選ばれるような指導が必要である。高学年では、身近な社会とのかかわりを主題にしながら、構想化し、技法の選択を通して試行錯誤できるような指導が考えられる。中学校では、資料や調査による主題選定を基にすぐ絵にするというよりも下絵などをふまえて構想を練り、造形的な効果を考えた表現に向かうことが望ましい。

 お話しの絵、想像の絵の指導では、子どもたちの実態に合わせて、先生主導の指導が展開できる。生活の絵の場合は主題を子ども自身が決めるのに対して、物語や想像の絵では物語や場面設定を先生が決めることができるので、技法的なねらいなどを明確にして指導することが望ましい。低学年で、いつも同じものしか描かない子どもや好きな色しか使えない子どもがいれば、「不思議な花園に迷い込みました。そこは迷路になっていて、最初に入った花園には、みんなの好きな花が咲いていました。角を曲がるとピンクの細長い花が咲いていました・・」というようなお話しをすることによって、最初は自分の好きな花を好きな色で描けるが、次からは先生の指示に従って色や形を使い分ける必要があるので、必然的に違った色や形の表現に慣れさせることができる。物語り絵で、画面構成について意識化させることをねらいにするのであれば、低学年では、ものの大小関係をつかませるような、「ガリバー旅行記」、「大工と鬼六」など、高低表現をねらう「鴨とりごんべえ」、「ジャックと豆の木」などというように国語的な読解による場面の選択のみならず、造形表現上のねらいを明確にして選択すべきである。中学年や高学年では、ものの前後関係や時間経過、重なり表現といったことを考慮した内容を持つものだけでなく、社会性、国際性を考慮したものなど物語の選択が重要である。高学年から中学校にかけては、ドラマチックな演出効果をねらった造形技法の紹介や、視覚資料、鑑賞資料の収集などによる計画性を持つ指導をしたい。

 観察の絵では、低学年では生活の絵を主体にしていく中で興味をもったものなどを必要に応じて大きく表現させる程度でよいだろう。中学年からは、部分と部分の関係を考えて表現させるようにしたい。高学年からは、対象の部分と全体、画面全体と対象の関係を考えた指導が必要になる。見て描く絵の指導で「よく見て描こう」という指示を耳にすることが多いが、子どもたちには漠然とした指示である。「よく見て」という指示の代わりに、見させる工夫が題材に組み込まれていなければならない。高学年の子どもでも、学級全体の様子を集中して絵に表すことは苦痛である。カレースプーンに映ったユーモラスな顔や歪んだ背景を描いたり、中学校でなら手に持った手鏡や球面のクリスマス飾りに映った顔の一部を自画像として描くようにさせると、画用紙の中に小さな枠組みをいくつか設けることになり、集中した取り組みを期待できるし、子どもたちにとっても鏡の次は手というように達成する部分が明確になるので気楽で、興味を持続しやすい。
 絵画の指導に限らず、表現に安心して取り組め、学習のねらいを興味の涌く方法に置き換えることを考えて題材設定をしたり、指導の展開を図ることが大切である。

(参考文献)
宮脇理監修、福田隆眞、福本謹一、茂木一司編集『新版美術科教育の基礎知識 建帛社』
西光寺亨著『絵で見る子どもの生活』教育出版

*以上が福本先生の書かれた文章です。
Commented by somethingt at 2005-08-21 02:35
児童画と指導画、先生個々の指導観や子ども観の違いによって子どもの表現は大きく異なってくる・・・ こうした作品紹介とともにじっくり考えることは、なかなか機会としてはなかったような気がします。実際の作品として目にし、感覚的に捉えていた事実が文章化されていて、自分の中にも整理されて納得できる気がします。
私自身、「友達の顔」と称して版画指導を行いますが、自分が人物画専攻だっただけに、ついつい子どもへの指導が、気がつけば「指導画」になっている部分があることに気付かされます。中学生ともなるとなおのことリアリズムを望み、さらには技術的なものを求める気持ちが強い・・・だからこそ「指導画」になりやすくなる・・・。そのバランスが難しい気がします。表現に安心して取り組め、学習のねらいを興味の涌く方法に置き換えることを考えて題材設定をしたり、指導の展開を図ることが大切・・・本当にその通りですね。
ちなみに版画の時、じっくり観察して相手の顔を描き、最後の仕上げは友達の顔を絶対に見ないようにさせてから「イメージの描き込み」と称して描いてもらうようにしていますけど・・・。
岩田でした(^^)
Commented by yumemasa at 2005-08-21 03:02
岩田さん、これ、わかりやすいでしょ。これ、画期的だと思いません?大学の先生というと何だか研究して、論文書いてという感覚ってあると思うんですが、そうじゃなく福本先生の現場感覚のある研究は助かります。福本先生のサイトは鑑賞教育が充実しています。

私も実は昔は「しどうが」だったんですよね。昔は、やっぱり、俗にいう「写実的で描き込んだ絵」を見て、すごい指導力だと思っていましたし。

ところで、あの話し合いで模擬授業してもらったことも、すごく勉強になりました。やっていただいた先生にも感謝ですよね。
Commented by lo999 at 2005-08-21 10:49
はじめまして、alkalineと申します。
トラックバックさせていただきました。眼からウロコのような内容でプリントアウトさせていただこうと思います。福本先生のサイトも覗いてみようかと思います。

トラバ先の私の文ですが、実話です。…ちょっと悩んでおります。是非、山崎先生にお眼を通していただきたいです。
Commented by yumemasa at 2005-08-21 16:25
alkalineさんTBありがとうございました。長いコメントつけましたけれど…
この表は非常にわかりやすいので、私も福本先生から公開OKをもらえてよかったです。プリントまでしてくださるとは!
一見「せんせい、あのね」の方が、楽な指導に見えますが、そのねらいに応じて紙を小さくしたり、授業の最初のことばがけを大事にしているはずです。それから子どもが作品を完成させたとき、それぞれの指導された先生がどう子どもと関わっているか想像してみてください。どんな言葉がけをしたか。
子どもが描きたいのはどちらだったのか、また「表現」って何かってこと考えていくと、この文章から多くのことを学べる気がするのです。
by yumemasa | 2005-08-21 01:54 | 子どもの表現 | Comments(4)

「美術教育」や「自然」に関するブログ。人々がより幸せになるための美術教育について考え、行動します。北海道北広島市在住。中学校教諭32年、大学で幼児教育・初等教育担当8年。現在、時間講師。


by 山崎正明
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