「命」をテーマにした授業をします
2005年 08月 27日
しかし、心のどこかで、何かひっかかっていました。本当にこの題材は価値があるのか、今落ち着いているとは言えない目の前の生徒に対して、どうなのか。
卒業制作である「自分という人間の存在証明」と重なる部分が出てくるかもしれない。
また、ネットを通してお知り合いになれた三嶋眞人さんの「命を形にしよう」という実践も非常に感銘をうけていました。実践資料を送っていただいたり、ワークシートを見たときに心が揺れました。これをもとに今の教育課程で うまく題材にできないかと思いながら、そのままになっていたのです。
そして私が最近参加させていただいたメーリングリストで、ある先生から「荒れている生徒でも出来る教材は?」という問いかけがあり、様々な意見が出てきました。私は「彫る、磨く」という行為が含まれているものがよいかもしれないと伝えましたいろな意見を読みながら、これまでの自分を思い出したりしましたし、刺激を受けたり、そのやりとりで、私の中に変化がおきました。
空知の伊藤さんがやっていた実践を思い出しました。伊藤先生がやっている「心の形」も気になっていたのです。それは「篆刻」用の石を使っています。旭川の庄子さんもやっています。
(なお「篆刻」については、生徒が非常に集中するということもあって、時々そのような実践を見ますが、これについては、私はもっとほかにやるべきことがあるのではないかと思っています。私の学校では選択教科「国語」でやっています。)
抽象彫刻ということでは違う素材でも様々な実践を見てきましたし、気にはなっていたのです。私もやりましたが、そこで育てるべき力や心のことでうまく教材化できなかったのです。
いろいろ悩んだ末、篆刻用の高麗石を使い、「命・いのち」をテーマに抽象彫刻をすることにしました。国語の先生にも相談したりしました。今ちょうどテレビではイサム=ノグチ展の宣伝もしています。先日、偶然にも図書室で安田侃さんの作品集を発見。なんという出会いでしょう。
そして深川であった「熱く語る会」で寺内先生が語っていた「教育の課題」と「教科の課題」、この「教育の課題」の話が気になっていたのです。
そして生徒たちが口にする「 ウザイ・キモイ・シネ」という言葉。報道されている子ども(大人も含みますが)たちの命にかかわる衝撃的な事件。まさしく教育課題なわけです。ならばそれこそ課題にふさわしい。
けれども、導入でどうやってそれを生徒に価値あるものとしてとらえてもらうか、どうやったら本気になってもらえるか、無謀とも思える課題。今の子どもを前にして「命」の大事さを訴えてもそれは価値の押し付けにしかならないだろう。しかも、それを形にする?難しい課題に違いない。
そして「彫る」という行為への魅力。娘が夏休みのひたすら木を削っている。説明がつかないけれど、無心にできるおもしろさ、しかしあの行為は「美しい形にする」という目的がある。単調に思える仕事の連続でありながら、美を意識する。
そしてこの制作を通して鑑賞の力も育つと考えられる。教師が制作と鑑賞のことを「つなぐ」なげかけを用意すればよいわけだ。大人になっても気軽に美術を楽しむ大人になってほしいから。
今受け持っている生徒には熱く語ることでは、すぐに受け入れられない。私は話すぎる傾向があるので、気をつけないといけない。シンプルで短時間でやらないといけない。
これらのことに加えて石狩でつくった基礎・基本(2006年現在この基礎・基本という言葉の使用をやめ「育みたい力」としました)をもとに授業で投げかけるものを用意する。そうすることが「美術でなくてはできない、他の教科ではできない」ことが鮮明になってくるはずだ。
この題材設定の理由を指導案に書いたら大変な長文になりそうだ。自分の中でモヤモヤしていた部分がある程度晴れて、方向が決まったのです。
さっそく授業をしました。手応えを感じました。早いクラスは2時間目に入りました。その2時間目の授業で1時間目に生徒が書いた作文(10分程度)をすべて読み上げました。シーンとなりました。
普段友達同士で話題にならないであろう「命」。あえて授業に組み込むことでよかったのだと思いました。仲間はこう考えていたんだと感じたんだと思います。私の命に関する感想もそれと並列扱いで少し話しました。それにしても命にかかわって出てきた作文を読んで、つくづく思いました。私が導入で語らなくてよかったと。
私自身が、次の授業が待ち遠しいと思っています。さて、しかし道は甘くはない。どうなることやら。
週に1回1時間しかないけれど、生徒が 大事なことをしている、おもしろいと感じてくれる時間にしたい。
さっそく、ある生徒のイメージが生まれたそう。亡くなったおばあちゃんが好きだったものを彫って仏壇に飾ろうかな。(あの子が、こんな感情を持っていたのか!もう、これだけでもうれしくなってしまいました。)
*写真は昨年あの世にいった「ピピ」。昨年の夏、急激に弱っていきました。やがてほとんど動かなくなりました。そして娘が学校から帰ってきました。なんと娘のところに歩いて行ったのです。それ以後動くことも出来ませんでした。ただ息をしているだけです。最後に数センチ歩こうと、痙攣してあの世に行きました。少しづつ、体が硬くなっていきました。
《関連記事》
☆「硬直した授業」←自分への戒めのために、忘れてはいけないので。
☆中学校3年生・彫刻「命の形」
(追記 2008年)この題材は転勤に伴い、教育課程を編成しなおす中で、彫る磨くということに時間がかかり過ぎることから 今は 取り組んでいません。
こうなると、ネット上「共同研究」ですね。
自分が「生徒」のような気分になって拝見しています。
「いのち」は大切。それはもちろんそうです。
でもなんで「いのち」は大切なのか?
ウサギならウサギ、我が子なら我が子、友達、家族・・・という身近な存在を「愛しい」と思う、大事に思う気持ちがあって
それは知らない人にも、たまたま見かけた動物にだって、それぞれに大事な存在があって
自分のことや自分の身近な存在を大切に思うことのできる人は、他もそうだろうなと思う想像力の下、「いのちは大切だよね」って思えることであり、
「想像力」っていうのは、何かどこか、キーワードになってる気がしました・・・?あれれ?まだまだモヤモヤしてます。
みんなの前で作文を読んだとき、きっと、他の人の思いを想像しながら聞いたと思うんです。
Uzuraさん、私も「命」に対していろいろ生徒とともに考えられるような授業がしたいと思うんです。理想ですけど、近づきたい。
さっそく、作文に私が予想もしていなかったものが出てきました。それは「四季のうつりかわり」なるほどなあ。そうだよなあ。
生徒のような気分でコメントくれたuzuraさんに感謝。私自身もいろいろ考えを深めれるんです。
記事にしながら、自分でも考え直せますし、つくづくブログはじめてよかったと思います。庄子でした。
最近思ったのは紹介記事や研究会報告の記事を書いていて(あっ、未完成のもあった)自分が勉強になることと、やはり記憶に残るということでしょうか。














