作品が違って見えてくる
2006年 07月 22日
今日、美唄の我路ファミリー公園に行ってきた。安田侃氏の作品「炭山(やま)の碑」を見るためである。公園はかなり荒れていて雑草が伸びていた。人もいない。公園の横に「炭山の碑」が静かにたっている。「炭山の碑」をはじめて見たのは写真であった。もう20年程前のことである。伸びやかに空に向かうそのシンプルな形と白い色が印象に残った。しかし今はまったく違って見える。一つは安田侃氏の作品が好きになっていったからだ。そしてもう一つは作品についての知識を得たことだ。

この我路公園に向かう途中はかつて炭坑として栄えた場所である。そんなところを通り過ぎてこの碑にたどりつくわけである。
この作品を通して地底に眠る魂のこと考えたり、安田氏の思いを考えた。明らかに最初見たときと作品は違ってみえている。
今日、この作品は美唄のこの地とこの時代だから生まれてきた作品であるとつくづく思った。
そして「鑑賞」の深さについて改めて実感した気がする。



今年7月18日のニュースで(共同通信)で、安田侃氏が、美唄の炭鉱で亡くなった朝鮮人労働者を鎮魂する慰霊碑「静江(せいこう)」を韓国・釜山に設置したとつたえられていた。ここ設置している「炭山(やま)の碑」と対をなす作品だそうで、「炭山の碑が死者の魂を放ち、静江が受け止めるイメージ」ということだそう。
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