こんな姿で学びたい
2006年 10月 29日
1、こう指導したらこういう作品ができました、という方法論だけでいくと、子どもの姿が見え難くなります。 それよりもなぜこの題材をやるのか、何を育もとしたのか、そのねらいそのものについて厳しく問うようなことが大事だと考えます。子どもの姿(変容)こそもっとも着目しなければならないことでしょう。
2、いろんな教育実践や研究に触れ教師自身が葛藤しましょう。方向が同じ仲間だけでやっていると居心地がよいのですが…。様々な教育研究団体があります。フィルターをかけずに見てほしい。揺れる中で本物が見えてくるそんな気がします。本当に正しい事であれば立場を超えて共通するものがあると実感しています。フィルターによって視野を狭くするのは何ともったいないことか。3、小学校・中学校で合同での研究の中でよく出てくる言葉があります。「美術は専門ではないので…」。美術が専門であればよい教育をできるとは限らないということです。逆に美術が専門であるがゆえに陥りやすい弱点もあるということを自覚しておく必要があります。指導の仕方によっていわゆる上手な作品ができていく、作品主義的なものなどがそうでしょう。子どもとどう向き合うか、子どもの姿はどうであったか、そこに着眼して考えていくべきでしょう。学級担任だからこそなし得るもの、教科担任だからこそなし得るものもあるはずです。
互いに学びあっていきたいものです。
たまたま帰り際に宿に戻る渡辺先生を発見し車まで送ったのですが、その車中での話しです。私が最後の最後に話したことに対して、『お前の話を本当に理解できた奴は少ないだろうな…。みんなかっこつけすぎなんだ。』とちょっと寂しそうに話してました。もっと子どもの本質に迫る泥臭い実践があって、その中に見えるものがあると私は思ってます。
渡辺先生は『熱く語る・・・』の中で、新たな息吹を生まれさせようと、本気で話せる場を作ろうとしているんだと思います。こういったつながりや思いをもっともっと次の若い(自分がもう若くないみたいですけど)人達につぐんでいかないといけないと思った教研でした…。
私の討議の柱の説明も弱かったと反省しています。それに加え、教師のレポート発表ももっと工夫がほしかった。
私はビデオ等での発表もほしいのですけれどもね。
レポート16本で、あの時間は厳しいかなあ。何か新たな方法を考えた方がいいかなあ。
ただ今、『りんごは赤じゃない』を読んでいます。自分なりに「美術の新しい位置づけ」を探っています。
実は言いそびれた言葉があったのです。こどもの「こうしたい!」という気持ちをつくる授業が大事なのだと。それを私は必要感という言葉を使いまいたが…、そうですね、こどもがどうしたいのかが見え難かったと思います。教師のこうさせたいはあったのですけれど…。
それでも感銘を受ける実践もありました。その実践がもっと注目されればよかったのですが…。
「りんごは赤じゃない」という本は知りませんでした。検索したらおもしろそうなのでさきほど注文しました。
美術の新しい位置づけって何だろう?興味があるなあ。
司会を終えて思うのは、討論で話を柱に沿ってもっと深く導けなかったのかという反省ばかりです。そこで思い浮かぶのは全国教研です。全国教研では3人体制で司会をしています。何年も継続して司会をして、司会のスペシャリストを養成している感じです。話の方向がぶれないように深まりのある討論ができるように進めています。全道教研もそんな司会を考えてもいいのかなと思います。美術分科会には教研病にかかった人がたくさんいますので、候補はいっぱいいると思います。
このことについては実は少し考えてみたいなと思っています。
それより旭川からの参加が定着してきたのはよかったです。
101歳組の参加はまた楽しかった。支部での参加体制も考えたいなあ。来年の私の役割は重くなりました。
プレッシャーもあるかも知れませんが、来年もみんなで教研を盛り上げていきましょう。
さて教研も例年通りではいけないでしょう。よりよいものをめざす発想の転換も必要ですね。美術教師は仕事のあり方でもクリエイターというかデザイナーでありたい。














